仏教研究室

お釈迦さまってすごいですよね。一緒に仏教を学びませんか?

モチベーションが続かない

調子のよいときは、よし頑張るぞ、と無理をしてでも頑張ろう

という気持ちがあるのですが、その思いが続かなくて、

気落ちすると仏法を聞こうという気持ちがなくなってしまいます。

感情の揺れが激しくおこる人はどうすればいいのでしょうか。

 

仏法を求める上で、調子のよいときと、調子の悪いときの波がある。
若存若亡」という。
調子のいいとき→若存
よし頑張るぞ。よし、これで信心決定できるぞ、と調子のいいとき。
調子の悪いとき→若亡
いや疲れた。仕事もきついし、というような色々なことがあると、

ついつい、ああ体もしんどい、お金もない、お腹もすいた。

信心決定、大事なのは分かるけど、やれやれ。

これは誰にでもある。親鸞 聖人にも。

不如実修行といえること

 鸞師釈してのたまはく

 一者信心あつからず

 若存若亡するゆえに

不如実修行→自力の信心。
鸞師曇鸞大師

信心が厚くない。厚くないからフラフラする。

それを若存若亡という。

順境、調子のよいときが続くと、よし頑張るぞ。

しかし逆境が続くと、もういいや、となる。

そんなときにどうするか。


どんな人でもなかなかなかなか一人で一直線に求めていけるものでない。

よしやるぞ、という一直線にはならない。

若存若亡しながら、だんだん信心決定に近づいている。

調子のいいときも悪いときも、光に向かって進めば、

間違いなく信心決定に向かって近づいている。

そんな私達はどうすればよいのか。御一代記聞書に教えられている。
「連れが大事、教えが大事。」
「同行・善知識にはよくよく近づくべし。『親近せざるは雑修の失なり』と『礼讃』にあらわせり。悪しき者に近づけば、それには馴れじと思えども、悪事よりよりにあり。ただ仏法者には馴れ近づくべき」由仰せられ候。俗典にいわく、「人の善悪は近づき習うによる」と。また「その人を知らんと思わぱ、その友を見よ」といえり。「善人の敵とはなるとも、悪人を友とするなかれ」という事あり。

(御一代記聞書150番)

 

同行というのは、同じ所に行くと書く。

仏法を聞いている人は、みんな信心決定して、

弥陀の浄土に行こうとしている人だから、同じ所に行く人。


志が同じ人を同志という。

俺とお前は同志だ。目指すものが同じなら同志。

私達は同志といってもいいが、仏教では同じ弥陀の浄土に行く人。同行。

法友のこと。
善知識というのは仏教の先生。

お釈迦様はもちろん善知識。親鸞聖人、蓮如上人も善知識。

そういう方はほとんどおられない。

 

同行のことを連れ、と言われている。

善知識のことを教えと言われている。

善知識に近づくのは、教えに近づく。

仏法を求めるときに、連れが大事。

なかなか波があって、しんどいなと思う。
自分が調子よく、連れの人が調子が悪い。

そのときは励ましてあげる。
ところが自分が調子悪いとき、連れの人が励ましてくれる。
若存の人が若亡の人を励ます。

仏法とは不思議なもので、法施をすればするほど自分も元気になる。
与えた人も、もらった人も元気になる。

自利利他。

そこが法施のいいところ。

やる気なかったけれど、誰かに仏法の話をしていたら元気が出てきた、

と言うことがよくある。生きる力をお互いに与えることができる。

「施しは生きる力の元と知れ」
お互いに元気になる。

善知識に近づくというのは、教えに近づく。
ともに教えに近づかなかったらならない。
順境の時も、逆境の時も、友達に色々相談したり、

少しでも教えを聞いて、一歩でも前へ進めるようにしたらいい。

それと、調子のよいときはどんどん色々なことをやったらいい。

だけど調子の悪いときは、あんまりでっかいことをやると、気が引ける。

できる、小さいことをやる。


若存の時は、普段あまりできない大きいこと。
若亡の時は、ちょっとでもできること。

今日はちょっと部屋掃除しようか。

靴みがこうか。ノート整理しようか。
ちっちゃな事をやっていると、あ、次これやってみよう、

次これやってみよう、と元気になってくる。
調子のよいときは、百のやること。全部できる。
ところが調子悪いとき。

あれもこれも、全部投げ出したいときに、一番簡単なことから手をつける。

すぐにできること。

調子のいいときは、普段なかなかできないこと、こういうものがいい。
そうやって、若存の時も、若亡の時も、少しでも前進できるように。
ちっちゃな事でもやれば、一ミリでも前へ進めるわけだから。
部屋は汚い、靴は汚い、バッグもめちゃくちゃ。人生投げたくなってくる。

それではダメ。
小さな事でも、一歩でも半歩でも前進しよう、という心が大事。
若存若亡、これは親鸞聖人も、善導大師も、みんなあること。
或いは本当に疲れたら、休む。体が疲れているのだから。

ぐっすり休んで、英気を養う。おいしいもの食べたら元気が出る。

感情に左右されずに仏法を求める心掛け、皆さんも工夫してもらいたい。
世の中ではストレスということがあるから、何にもヤルキがない。

仕事もできない、子供の顔も見たくない、帰宅恐怖症。

かわいそう。

新婚の二、三年は家に帰りたい。しかしその後は冷めてしまう。
会社で仕事して、家に帰らずにサウナに泊まる。
遠くへ行ってサウナに泊まると、中高年の人が沢山。

家に帰りたくない。
どんな仕事をしても、順境と逆境がある。
仕事やめようかな、首でもつろうかな。本当に死んでしまう人もある。

人生どっちにしろ苦しみはやってくる。

仏法聞かなくても逆境はやってくる。
自殺する人33000人もある。

苦しくて苦しくてどうしようもない。

自殺未遂は10万人と言われている。
どうせ苦労するなら、どうせ苦しむなら、苦しみ甲斐のある道がいい。
努力して苦しんで、全然報われない人生よりも、努力して苦しんで、

それが報われる。

人間に生まれてきてよかったな、仏法聞いてきてよかったな、

と思える決勝点がある。

高橋尚子さんが、マラソン途中でリタイヤしたら、

「とっても楽しい35㎞でした」とは言えない。

最後でもいいから、最後まで走る。

「とっても楽しい42㎞でした。」これは言える。

どっちみち人生は、苦しみはどこへ行ってもあるのだから、

生まれてきてよかった、生きてきてよかった、仏法聞いてきてよかったな、

という世界を味わってもらいたい。

努力、苦労が報われる世界。

受験勉強でも、苦しい勉強して、合格して、ああ受かってよかった、となる。
途中でやめたら喜べない。

 

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極楽には往きやすいのに人がいないのはなぜ?

大無量寿経』にお釈迦さまが「易往而無人

と言われている意味を

蓮如上人はこのように明らかにされた。

これによりて『大経』には「易往而無人」とこれを説かれたり。

この文の意は、安心を取りて弥陀を一向にたのめば浄土へは参り易けれども、

信心を取る人稀なれば浄土へは往き易くして人なしと言えるはこの経文の意なり。
( 御文章)

 

これを親鸞 聖人はこう教えられた。

「易往而無人」というは、「易往」はゆきやすしとなり、本願力に乗ず
れば実報土に生るること疑なければ往き易きなり、「無人」というは、
ひとなしという、ひとなしというは真実信心の人はありがたき故に実報
土に生るる人稀なりとなり

(尊号真像銘文)

 

これは、親鸞聖人が易往而無人というお言葉を説明して下されたお言葉です。

これ、非常に大事ですね。

信心決定すれば、間違いなく本願の実報土に生まれられる。

極楽往生 できる。

そして、真実信心の人、信心決定した人が少ないから、浄土には人無し

こういうことなんです。

 

蓮如上人と親鸞聖人の仰有ることは、全く同じです。

 

 

存覚上人という人が、この「無人」ということについて解釈しておられます。

 

存覚上人は、覚如上人のご長男です。

そうすると親鸞聖人の、曾曾孫ということになりますね。

存覚上人は、大変な学識のある方で、

親鸞聖人を除けば、おそらく最も教学力のある方と言われます。

六要鈔といって、教行信証六巻の要を書かれています。

昔から、教行信証を理解しようと思ったら、

この六要鈔を読まねばならないと言われるほどです。

だから、大変な学者だったんですね。

この存覚上人の御著書に、浄土見聞集というものがあります。

そのなかで、この易往而無人のお言葉について、

 

ひとなしというは、よくおしうる人もなくよくきく人もなきなり
(浄土見聞集)

といわれています。

お釈迦様が、極楽に人がいないと仰有るのは、

よく教える人、よくきく人がいないからだと。

よく教える人とは、善知識。

善知識がおられないと言うことです。

仏法を正しく説かれる方、この道を導いて下さる方です。

また、よくきく人もいない。たとえ善知識がおられても、

その善知識の教えを聞ききる人がいない。

だから信心決定する人がいない。

だから、極楽に生まれる人がいない。このように仰有っています。

易往而無人というわずか漢字五文字ですが、

親鸞聖人・蓮如上人・存覚上人、それぞれが教えられているわけです。

 

自力の念仏と他力の念仏の違い

蓮如上人は、 御文章に他力の念仏を勧められている。

末代無知の在家止住も男女ならんともがらは、心を一つにして、阿弥陀仏
深くたのみまいらせて、更に余の方へ心をふらず、一心一向に「仏たすけた
まえ」と申さん衆生をば、たとい罪業は深重なりとも、必ず弥陀如来はすく
いましますべし。これ即ち第十八の念仏往生 誓願の意なり。

ここまでが、念仏往生の誓願の心。あえて念仏往生といわれている。

かくのごとく決定しての上には、寝ても覚めても命のあらんかぎりは、

称名念仏すべきものなり。

御文章5帖目1通末代無知)

 

かくのごとく決定してのうえには、信心決定しての上には。

第18願の心を体得した、信心決定した上には。

寝ても覚めても念仏称えなさい。

 

寝ても覚めても南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏と申すべきばかりなり。

これを信心とりたる念仏者とは申すものなり。
(御文章5帖目17通それ一切の女人)

 

これが歎異抄念仏者は無碍の一道なり、といわれている念仏者。

 

さて、この上には、なおわが身の後生の助からんことの、

嬉しさをおもいいださんときは、

寝ても覚めても南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏ととなうべきものなり。
御文章5帖目18通当流聖人)

いくら念仏称えてもたすかりませんよ、といわれている

蓮如上人が寝ても覚めても、といわれている。

戒められたのは自力の念仏

いくらとなえても助からない。

親鸞 聖人が3つに分けて教えられたのを、

蓮如上人は自力の念仏、他力の念仏と2つに分けて教えられた。

 

南無阿弥陀仏におさまっているもの

昔、戦争でたくさんの若者が戦場に散っていった。

連合艦隊という映画で、零戦に乗った若者が、まだなれない操縦で、

敵艦にぶつかっていく。

その時「お母さん!」と叫んでいた。

ああ言うときに、誰もお父さんと言わないんだね(笑)

女の子でもそうだろうね。

お母さんというのは、単なる文字でなくて、その人にとっては自分の命なんだね。

先立つ不幸をどうかお許し下さいと。

その時は、もうお母さんと一緒になって、母の命を自分の命として死んでいく。

その時の言葉はただの文字ではないんですね。

分からない人にはただの字にしか見えないかも知れないが、

ここには阿弥陀如来 の命がこもっている。

だから、お釈迦様でさえ百千万劫かかっても説き尽くせないと仰有るんです。

親鸞 聖人も、不可称不可説不可思議の大功徳と仰有るしかない。

それを、迷った凡夫の考えで金ぴかの木像がいいという。

それを蓮如上人が叱っておられます。

不思議だと思うのは、南無阿弥陀仏をただの字だと思っているからだと。

悪凡夫が弥陀をたのむ一念で仏になれることが不思議だと。

一念の信心をいただくのが真実の宝を頂くと言うことで、

それは阿弥陀仏の命を頂くと言うことなのです。

そんな南無阿弥陀仏を今度頂くのです。

自分の書いたラブレターの返事に「わたしもすきです」と書いてあったら、

受け取った人には、それはただの文字ではない。彼女の命なんだ。
そんな命も、10年もするとなくなってしまうこともあるけれど。

南無阿弥陀仏は、阿弥陀仏の命。

絶対に裏切らないと言う約束が込められている。

尊んで、礼拝するものです。

下に置いて、踏んだりしたら大変です。

御本尊について

南無阿弥陀仏について。

浄土真宗の正しい御本尊です。

他流には「名号よりは絵像、絵像よりは木像」というなり。

当流には「木像よりは絵像、絵像よりは名号」というなり。

(御一代記聞書70)

 

蓮如上人のお言葉ですから、当流とは、浄土真宗

真宗の正しい御本尊。

浄土他流では名号よりは絵像、絵像よりは木像、
浄土真宗では木像よりは絵像、絵像よりは名号。

正しい本尊は名号ですよと言うことが、ハッキリ教えられています。

 

この御本尊を常におかけして、

おつとめをしなさいよと言うことです。

これが、その前の御一代記聞書69

蓮如上人仰せられ候、「本尊は掛けやぶれ、聖教は読みやぶれ」

と対句に仰せられ候。

(御一代記聞書69)

 

御聖教は何度も何度も読んで、破れるまで読みなさい。

もちろん、粗末に扱って破りなさいと言うことではありません。

蓮如上人は、教行信証を、表紙がすり切れるまで読み破られたと言われます。

そして、その深い内容を、 御文章に、その要を書いて下さったのです。

私達もお聖教など、いつも持ち歩いて読み破る。

それと同じように本尊も、箱に大事にしまっておくのでなく、

常におかけして、おつとめをさせていただく。
それが大事なんですね。

なぜ絶対の幸福になれるのか

南無阿弥陀仏を頂くから絶対の幸福になる
親鸞 聖人言われている。

我が弥陀は名を以て物を摂したまう。是を以て耳に聞き口に誦するに、
無辺の聖徳識心に攬入し、永く仏種と為りて、頓に億劫の重罪を除き、
無上菩提を獲証す。

阿弥陀如来 は御名をもってものを摂したもう。

摂取と言うことです。

名号をもって衆生を絶対の幸福に救うと。

ものとは衆生。決して捨てない。絶対の幸福に救う。
この名号は耳から頂く。そして念仏となって称えずにおれなくなる。

限りない仏徳が、私達の心に入って下された。

弥陀の命がわが命となる。

弥陀の仏徳が私のものになる。いただける。

そして、永く仏種、仏の種になる。

この名号が。だから死んで必ず浄土へいって仏になれる。

必ず芽が出て仏になれるのだから。

頓とはたちまち。一念でということ。

億劫の重罪を除く。無上菩提を獲証す。

素晴らしいことだね。

 

わが弥陀はこの名号を持って全ての人々を絶対の幸福に救うと言われている。

弥陀の願いが私のものになる。

それは永遠の仏種、仏になる種。

だから必ず無明の闇が破れ、無上菩提を獲証する。これ以上の宝はない。

 

それは一念で頂ける。

私達が信心獲得すると言うことは、

阿弥陀仏が命をかけて作って下された弥陀の命である南無阿弥陀仏を頂くと言うこと。

この信心獲得一つを叫ばれたのが親鸞聖人です。

あわれあわれ存命の中にみなみな信心決定あれかし、

それが善知識の願いですが、その通り信心を頂く。

是非そういう身になっていただきたい。

南無阿弥陀仏の功徳は、何億年かかっても説き尽くすことはできない

若し広説せば百千万劫にも窮め尽すこと能わじ
大無量寿経

どなたのお言葉か
釈尊のお言葉』

どう言う意味か。
阿弥陀如来の本願を説くことは、百千万劫かかっても説ききることはできない』
名号の大功徳です。
名号の大功徳は。勿論、名号は阿弥陀如来 の本願から作られたもので、
本願イコール名号です。

詳細にくわしく説こうとすれば百千万劫にもきわめつくすことあたわじ。
一劫とは四億三千二百万年。長いね。その百千万倍。
それだけかかっても説き尽くす事ができない。

南無阿弥陀仏の功徳は何億年説いても説き尽くせない。
お釈迦様が。
話の下手な人じゃない。
大雄弁家のお釈迦様が仏の広長の舌相をもってしても
何億年かかっても説き尽くすことができない。

そんな不思議な大きな力のある南無阿弥陀仏
これが真実の宝だ。
その真実の宝を一念でお前に与えるぞと誓われたのが弥陀の本願。
それを心得るのが信心獲得

それも一念で。アッという間に頂けるんだよ、と。
全ての人を絶対の幸福にしてやりたいという阿弥陀仏の命がこの南無阿弥陀仏
阿弥陀仏が全身全霊込めて作られた弥陀の願いが込められた力。
これが真実の宝。
我々を絶対の幸福にいかす。
三世の業障を一時に消してしまう。

無明の闇、苦悩の根源をぶち破って下さる力。
これが真実の宝。
それを心得る。
弥陀のいのちを頂く。
そういうことが説かれている。