仏教研究室

お釈迦さまってすごいですよね。一緒に仏教を学びませんか?

救われたつもりの人の特徴

獲信したと思っている周囲の者も、こぞって
「めでたい。めでたい」「よかった。よかった」
と言うので、本人も獲信したつもりになる。

 

そして本当に弥陀の本願に救われた人なら、
より聞法せずにおれなくなるものだが、
彼らは助かった後は、もう聞く必要はないとして、聞法する気がない。

 

周りの人から言われて、やっと、これで獲信したと喜ぶような信心ではない。
自分がはっきりしなかったら、自分が喜べない。
彼らには喜びが全然ない。

喜びがあったら、聞きたくないなんて言う気持ちにはならない。
だから親鸞 聖人も、法然上人か
らもっと聞かせて頂きたいという気持ちになるんです。

 

恐ろしい信心の人たちの特徴

世の中には、仏教といいながら
そうではない信心の人たちがたくさんいます。

救われたつもりになって
地獄行きになってしまいます。

そんな恐ろしい信心に迷わないために、
その特徴を知っておく必要があります。

まず、そんな人たちは

「信心を獲るのにコツがある」と言って、個人教晦に持ち込みます。

個人教晦とは、マンツーマンです。

コツは、マンツーマンでしか教えないと言うことです。
そのコツについての仏教講座を開くことはできません。

しかしそんなすばらしいコツがあるなら
お釈迦さまや親鸞 聖人、蓮如上人が説かれないはずがありません。
そんな人間の作ったコツなどないのです。

地道に仏教を聞きましょう。

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困惑

オウムの上祐は慶応医学部・早稲田の理工、
青山弁護士は京大法学部、三年で司法試験合格。
「高学歴の、頭の良い彼らがあんな邪教に、どうして‥‥」
高学歴、あんな頭のいい人が、どうしてと思うでしょ。

でもね、どんなに知識や才能があっても、心が苦しんで、焦っている。
それが迷った信心を生みだすんです。

オウムの犯罪者の顔ぶれを見て、みな頭をかかえているが、
迷信と知識や才能は関係ないのです。

船の設計技師も溺れたら、ワラにもすがります。
船の設計技師といえば、これくらい大きな船なら水に浮くと、
きちんと計算して浮かばせることができる。
でも、そんな人でも自分がおぼれかかったら、藁にもすがってしまう。
助かりたいから。

学歴のある人でもみんな苦しんでいるもんだから、
ああいう迷信に入ってしまうんですね。

所詮は、「生死の苦海ほとりなし」が分からぬ為の困惑なのです。
人生の苦しみはみな同じなんだ。
みんな何を信じたらいいか判らずに苦しんでいます。

クリントンも、ブッシュも、ゴアも、首相も、
みんな苦しんでいることに変わりありません。
そういう苦しみが人工信心を生むんだということを知ってもらいたい。

 

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浄土真宗の現世利益

浄土真宗は、死んだらお助けだと思われていますが、
金剛の真心を獲ると、とってもたくさんの幸せを
獲ることができると教えられています。

現在生きているときに十種の幸せを獲ると。

金剛の真心を獲得するものは横に五趣八難の道を超え、
必ず現生に十種の益を獲。
何者をか十と為る。
一には冥衆護持の益、
二には至徳具足の益、
三には転悪成善の益、
四には諸仏護念の益、
五には諸仏称讃の益、
六には心光常護の益、
七には心多歓喜の益、
八には知恩報徳の益、
九には常行大悲の益、
十には入正定聚の益なり。
(教行信証信巻)

はっきりしていますね。
ご和讃にも教えておられます。

真心徹到するひとは
金剛心なりければ
三品の懺悔するひとと
ひとしと宗師はのたまえり

これが浄土真宗の生きているときに得られる幸せです。

阿弥陀仏の19願の「至心発願」の意味

阿弥陀如来の19願に「至心発願」というお言葉が誓われています。

 至心発願の「至心」とは「まことのこころ」ということです。
誰の心でしょうか。

私達にはまことのこころはあるんでしょうか。
ないもの出せ!と言われているんですが、
これは「まことのこころにして」ということです。

「まことのこころ」にならん私が「まことのこころ」にしようとして、
ということです。
もっとも多くの人が間違ってるところだと思います。
どうせならないもの、と思っているのは
「まことがない」と本願力に照破されたのとは全然違うんです。
実行してみないと分からないものです。

いくつか例をあげてみますと、挨拶するってことあるじゃないですか。
私が、子供の頃「おはようございます」と言うのが素直にできなかったんです。
そもそもそんなこと言う気持ちがないんだ、
だからここで言うのは自分に対する裏切りだ!とか。
「ごめんなさい」も言えない。
たしかに俺も悪いけどお前も悪いんだ!とか。
上司や先輩にあいさつしてるのをみるとヘドが出る!
何だコビ売りやがって!と思ってました。
多かれ少なかれ、こういう気持ちってみんなあるんです。

そういう心しかないんですけど、
それを「まこと」の心にして、
そして挨拶してみる。

これが「至心発願」です。

そこを自分の思いのままにやってるのは、
素直なんじゃなくてガキなんです。
お礼状やお詫び状にしてもそうです。

書く気もない自分の心を正して「合掌」「拝啓」とか書くんです。

自分の心を見つめて、心をまことにしようと努める。
これが19願のみ心にかなっていると思うんです。
御一代聞記書に「心を責めよ」というのがあります。

「わが心にまかせずして心を責めよ」
というのは、三願転入の道を進む時、あれはしたいこれはやりたくない、
という弱い心に任せておっては、
諸々の功徳を菩提心を発して至心に発願してやってる
とは言えないんだということです。

カッコだけつけとかなくてはならないからやっとくの。
掃除の時間も、ほうき持って動くだけ。
心をこめてやってるわけじゃない。
しかし19願では、そんなあなたの心を「まこと」にしようとするんです。

挨拶するにせよ、
自分と接する誰かに少しでも幸せになってもらいたい、
こういう思いが必要なんです。

仏法の話をする時だって、話す人に少しでも幸せになってもらいたい
という気持ちがあるかどうか、これ非常に大きなものなんです。
仏法にお金を使う時だってそう、
後生の一大事解決の為ならばこれくらいではまだまだなんですが、
という気持ちになってるか、それとも体裁だけを取り繕っているか、
大きな違いです。

昔、ある女性の方が御縁を結びました。
そこで真実の自己を話します。
一生造悪の話をします。
すると、確かに言ってることは分かるんだけど、
そんなこと考えてたら誰も信じられない、
誰も愛せないじゃないですか。
仏法者は結婚 するにせよ恋愛結婚 ではいけない、
人生の墓場だと覚悟して結婚式をあげる。
こういうのが理想なんでしょ、と言ってくれるんですね。
潤いも明るさも希望もありませんね、って。

しかし、人間のまことの相というのは、
18願に出させていただいて、
無量の光明に照破されて知らされることです。
そこへ進んでいく19願では、精一杯まことの心にしようとするんです。

「まごころ込めて」という言葉あります。
仏法聞き誤ってる人は、まごごろなんてないんだ!
「まごころ抜きで」贈り物を、と言うんです。
無念無想で念仏称えるぞい!なんて。

「心こそ、心惑わす心なれ、心に心、心許すな」
「最大の敵は心であり、最強の味方も心である」
「山中の賊を破るは易く、心中の賊を破るは難し」(法句経)
「いくたびも思い定めて変わるらん思うまじきはわが心かな」
「そのまま我が心に任せたならば地獄行き」
「心せよ心許せば身の破滅」

自分のことを楽な方へと導く心。
理由と絆創膏はどこへでもくっつく、自分を正当化しようとする心。
そういう心を責めよ、と言われています。

「至心発願」というのは、仏様の眼から見ればまことなんてのはないんだけど、
そのあなたの心をまことにする。
そうやって阿弥陀如来極楽浄土に生まれたい(欲生我国)
という願いを起こして、ということです。

真実へ導く方便

「願海につきて、真あり仮あり」教行信証

「真仮を知らざるによりて、如来広大の恩徳を迷失す」教行信証

信楽を獲得することは、如来選択の願心より発起す。
真心を開闡することは大聖矜哀の善巧より顕彰せり」教行信証

蓮如上人仰せられ候、"方便を悪しということは、あるまじきなり。
方便を以って真実を顕わす廃立の義、よくよく知るべし。
弥陀・釈迦・善知識の善巧方便によりて、真実の信をば獲ることなる"
由仰せられ候」(御一代記聞書)

 

 阿弥陀如来釈尊も歴代の善知識方すべてが、
我らが無上の信心を発起させんが為に種々に善巧方便なされているのに、
その方便を無視したり軽視したり、
果ては悪呼ばわりするに至っては言語道断、仏法ではありません。
蓮如上人仰せの通り、阿弥陀如来釈迦如来、正しい仏教の先生方の
ご方便がなければ、絶対に信心獲得はできないのです。

真実の世界というのは、他力です。
そこまでは、自力です。
18願を立てられた阿弥陀如来のみ心を、
他の誰より分かっておられた釈迦仏が
その18願のみ心を明らかにされたのが「大無量寿経」、
19願を「観無量寿経」に
20願を「阿弥陀経」に明らかにされました。

そして19・20願を明らかにした観無量寿経阿弥陀経の教説を経て
無量寿経へと進ませたのが釈尊です。
「釈迦弥陀は慈悲の父母 種々に善巧方便し 
 我らが無上の信心を 発起せしめたまいけり」
と教えられるのはこのことです。

またこれと同じことをいわれたのが
信楽を獲得することは如来選択の願心より発起す」です。

とにかく、目的を果たすに絶対必要なものが手段である方便なのです。
よくタクシーの話をされます。
タクシーに乗ったらまず最初に目的地を言います。
そのタクシーの運転手が不慣れで道を知らなければそこへの道程をも教える。
目的地を言うのも私なら、そこへの最短経路を教えるのも私、なんですね。

また、十方衆生を絶対の幸福に救うというのは、ちょうど2階にあがって
綺麗な景色を見せてやるということです。
しかしその為には、階段が必要、はしごが必要になります。
それをつけてやらねばならない。
19願で阿弥陀如来  が善を勧められたり、
20願で念仏を勧められるのは、
絶対の幸福という2階に導くのにどうしても必要な
はしごのようなものだからなんですね。

お経の相手

ブッダが説かれた経典というのも、
それがどんな相手に説かれたかというのは決まっているんです。


いつ説かれたかは書かれてないですが、
どこで、誰を相手に書かれたかというのは書かれています。

阿弥陀経」の最初にも、相手を書かれています。

「是の如く我聞く。一時、仏、舎衛国の祇樹給孤独園に在して、
大比丘衆千二百五十人と倶なりき。
 皆是れ大阿羅漢にして衆に知識せらる。
 長老舎利弗、摩訶目犍連摩訶迦葉・摩訶迦旃延・摩訶倶チ羅・離婆多。
周利槃陀伽・難陀・阿難陀羅睺羅・キョウ梵波提・賓頭盧頗羅堕・迦留陀夷・摩訶劫賓那・薄拘羅・阿㝹楼駄
是の如き等の諸の大弟子。
 並に諸の菩薩摩訶薩の、文殊師利法王子・阿逸多菩薩・乾陀訶陀提菩薩・常精進菩薩、是の如き等の諸の大菩薩。
及び、釈提桓因等の無量の諸天大衆と倶なりき」 (仏説阿弥陀経

三乗である声聞とか縁覚や菩薩だけじゃなくて、諸天や大衆も入っています。

諸天とは天上界衆生、大衆は人間界の衆生で、私たちです。
これらを五乗といいます。
三乗に諸天と大衆を含んで五乗といいます。

阿弥陀如来の相手は十方衆生です。

ここに書かれてあります。
浄土宗浄土真宗の「阿弥陀経」は五乗が相手、
天台宗日蓮宗の「法華経」は三乗の声聞とか縁覚や菩薩
華厳宗の「華厳経」は菩薩のみ、
テーラヴァーダ仏教の小乗経典は声聞のみが相手なんです。
阿弥陀経」は阿弥陀如来 の20願を明らかになされもお経ですから、
その相手は十方衆生となっています。