仏教研究室

お釈迦さまってすごいですよね。一緒に仏教を学びませんか?

神道の神の嘘

さまは尊いものと思っている日本人はたくさんあります。

「では貴方の尊い神とは、どんなさまですか」
 と尋ねられて、明確に答えられ人はほとんどありません。

まったく習慣化して昔からあるものだからといって、
誰もその実態を確かめようともしません。
ただ漠然とさまというものは、訳のわからない、
おそれおおくも有難いお方、
黙って拝んでおればよいものだ、程度に思っている人ばかりです。

だから尊いさまだといいながら熱心に拝んでいるのかというと、
大抵、神棚はチリにまみれ、宮詣りなどは年に二回の祭りぐらいのものです。

それはほとんど先祖をとしている先祖供養の一種です。

特に氏神などがそれです。
氏神の総元締が天照大神になっています。
氏神というのは、その一族の長老やみんなの為に功績のあった人の「霊魂」を、
御利益あるとしたものです。

そのような死んだ人の霊魂が生きている人に幸せや不幸をもたらすことは、
お釈迦さまは、徹底的に排斥されています。

私達が人にものを依頼する時は必ず相手を確かめます。
煙草がほしければ煙草屋さんに、歯が痛めば歯医者に頼むように、
相手を確認してから依頼します。

それなのに
「金を儲けさせてくれ」
「大学合格させてくれ」
「病気治してくれ」
と先祖の死後も確かめずに勝手な祈願をしている人ばかりです。

年明けにはみんなおかしなことをしています。
蛇に向かって壱万円投げているおやじもいます。
実態を知らないと、煙草屋に歯を治しにいっているようなものです。

目的が達せれるはずがありません。

火山にある神社に参拝していた人が、火山が噴火して死んだりする
悲しい事件によって神道が実証されています。

単なる迷信です。

仏法者のすべきこと

破邪顕正は、
なぜか右翼の車の横に書いてあったりして
激しい言葉というイメージがありますが、
仏教の言葉です。

どんな意味かといいますと、
破邪とは、邪とはよこしまということです。
よこしまな間違った邪教の信仰や迷信を持っている人を、
さわらぬ神にたたりなしと思って
見ぬふりをしたり、聞いて聞かぬふりせずに、
その間違っていることをハッキリ教えて邪を破ってあげることです。
間違ったものを破らないと正しいものを明らかにできないからです。

 顕正するというのは、
ただ間違っていることを打ち破るだけではなく、
正しい仏教をハッキリ教えてあげることです。

お釈迦さまは、
破邪顕正せざるものは仏弟子にあらず」
経典に説かれています。

僧にして、法を壊つ者あるを視ながら、これを黙視し、
更に呵責駆遣せざる者は、この僧は、これ仏法中の怨なり。
若し、よく駆遣呵責せば、これ我が真仏弟子なり。(涅槃経)

仏法者たるもの、破邪顕正せよということです。

 

本尊を風呂で焼く

親鸞 聖人は、浄土真宗の正しい御本尊は名号本尊だぞ、
と教えられています。

それから200年後、蓮如上人の時代には
多く木像などの本尊がありました。
蓮如上人はそれを焼かれたのです。

蓮如上人の御時、あまた御流に背き候本尊以下、御風呂の度毎に焼かせられ候。
(御一代記聞書223番)

御流に背き候本尊とは、絵像や木像などの仏像です。

それは浄土真宗の教えに反するということで、
蓮如上人は親鸞聖人の教えを正確に伝えられたのです。
蓮如上人は
親鸞聖人は、親鸞聖人は、
とばかりいわれるのです。

親鸞聖人の教えしかいわれない。
おまえの考えはないのか、となりそうですが、
仏教ではそういうことは絶対にありません。

蓮如上人は分からない事を聞かれて、分からない、といわれて、
親鸞聖人のいわれたようにやろう。
と答えられています。
燕雀いずくんぞ大鵬の志を知らんや、
「どうして親鸞聖人のみ心をこの
蓮如が分かるはずもないじゃありませんか」
という所にたたれているのです。

一切経を読み破られた親鸞聖人が言われているのです。
そのお言葉に従っていけばいいのです。
理由なんて詮索しなくても問題ありません。

テレビはつけるとうつりますが、
その理由は知ろうが知るまいがうつるのです。

親鸞聖人も蓮如上人も名号本尊にされたのです。
実際に親鸞聖人はたくさん名号を書かれています。
その裏には愚禿親鸞敬信尊号と書かれています。
実際に善知識がそのように言われています。
だからそのようにしたらいいのです。

一生懸命強く生きるために目的が必要?

「一生懸命強く生きるために、目的が必要なんです」
という言い方がおかしいんじゃないか、
ということで、問題提起をした人がいました。

勉強でも、野球でもそうです。
これはどこがおかしいかわかりますよね。

目的あっての手段ですから、
目的の方が手段より大事なのに、
手段の方が大事に聞こえてしまいます。

生き方よりも生きる目的はもっと大事なのに、生き方が大事なように聞こえます。

一生懸命生きるのは、人生の目的 を果たすためです。

しかし、本当に伝えたい真実がわかっているならば、
言っても子細はありません。
生きる目的 が一番大事です。

一生懸命生きることが一番大事だと思っている人ばかりです。
そういう人たちには、このような言い方が分かりやすいときがあります。

あなたが言うときには、導いていく真実がどこにあるのか、
ということをよく知っておくことが大切です。

どうしたら伝えることができるか、
お互いに研究工夫していきましょう。

真諦門と俗諦門

真諦門、俗諦門というのは、
真俗二諦の教えと言われます。

真諦門というのは、いつでもどこでも変わらない真実のことを言います。
時代によって、場所によって変えるものでない。
どの人種も、いつの世紀になっても、宇宙人であっても、
三世十方で変わらない真実を真諦門と言います。

死後に一大事があります、と教えられたのが仏教です。
これを言うといやがる人がいます。
だから言うのをやめましょう、ということではいけません。
そして、死んだらどうなるの一大事の解決は
阿弥陀仏のみによるのだから、
一向専念無量寿仏です。
これも曲げてはなりません。

阿弥陀仏 というと、抵抗を感じるんじゃないか、
ということで、世間の人で、
阿弥陀如来 のことを言わずに、「大宇宙のパワー」とか言っている人がいます。
そういうと、か何かと勘違いします。
これも曲げてはなりません。
そして、断じておぼろげな体験ではなく、
一念で救われるハッキリ救われる教えです。
いつでもどこでも、時空を超越して変わらない教えです。
こういったものは、死守すべきものです。
国家権力から弾圧を受けても、仏法者が守って行かねばならない真実を言います。

それに対して、俗諦というのは、
三世十方を貫く教えをどのように伝えるのか、
ということを言います。

道徳も法律も憲法も違う、
時代や場所にマッチした方法で、真実を明らかにしていく。
変えていって良いもの、むしろ変えて行かねばならないものです。
日進月歩して変えて行かねばなりません。

仏教を聞く暇はない

子を育てる暇はありませんが、大事と思えばこそ、
子を育てながら仕事ができます。

後生の一大事の心さえあれば、生活のままが求道になります。
精進こそ肝要です。

後生の一大事の一大事の心さえあればです!!

後生の一大事とは、死んだらどうなるのことです。

死後の世界は一大事ということです。

仕事をしながら子育てこんなお母さんいます。
大変です。
子育てといいましても好きなときに面倒を見ればいいと言うわけでもありません。
仕事をするのも大変です。

両方するのは大変です。
でもどうしてできるのでしょうか?

子供が大事と言う心があるからです。
この子をなんとか育てないと!!
と言う心があるから辛い仕事をしながらでも子育てができるのです。

私達朝から晩まで仕事がなんだ!!
勉強がどうした!
そんなことばかり気にしていますが、
後生の一大事が大事であると言う心を忘れてはいけません。

 

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僧侶のなすべきこと

以前はボス、とまで言われた僧侶が最近は地におちてしまいました。
生活できないので、どうしようか、
駐車場とか幼稚園を経営したりしています。

しかしお寺が世間的なビジネスで運営していってもね。
葬式法事戒名で運営するのでさえも本来の仏教ではありません。

あくまで布施の関係。法施と財施の関係が、お僧侶門徒や檀家の関係ですね。

仏教の教えを徹底する。

仏教のお言葉を出して、一言一言丁寧に話をしていくのです。
そして本当の幸せまで導くということです。

分からない話はしなくていい、
これは分かったという話を丁寧に話をしていけばいいのです。
これが僧侶である仏法者の使命であってこれ以外にはあってはなりません。
仏教の教えを丁寧に話していくのです。

そうすれば、財施に恵まれて、お寺は運営できるのです。