仏教研究室

お釈迦さまってすごいですよね。一緒に仏教を学びませんか?

人間は7分に1度嘘をつく。

人間は7分に1度をつくといわれます。


いつも嘘ばかりついているということです。

例えば手紙の最初に拝啓と書きます。
拝啓とは、拝んでひらくという意味です。

拝んでいない人ばかりでしょう。

手紙の最後には、
いつもあなたの御身体案じております……。
と書きます。

いつも案じているわけではないでしょう。

よく考えてみれば、そういう嘘ばかりついている私たちがいます。

私は嘘なんかついたことがないというのは
自分が見えていないだけです。

このように、普通に生活しているだけで、
いろいろの嘘があることに気づきます。

この場合は、相手への配慮があれば当然出てくるものです。

このような悪ばかり造っている深い業を持った私たちが
本当の幸せになれる道を教えられたのが仏教です。

 

仏教は宗教ですか?

仏教が初めての人から「仏教は宗教ですか」
と質問されたらどう答えればいいでしょうか。

これについては、まず「違います」とはっきり言えばいいのです。

なぜなら、仏教は宗教なのですが、このような質問をする人に、
違うと答えても、まったく嘘にならないからです。

それは、相手がどういう気持ちで聞いているかということに対応した答えなのです。

相手の気持ちはどんなものかと考えたとき、
これって葬式ですか?それともオウムですか?
ということと同じ意味だとすれば、
これで「そうだよ」
と答えてしまうと誤解を与えてしまいます。
「危ない!」「洗脳される!」
くらいに思うのが関の山です。

宗教=オウム=危ない
という方程式が日本人にはできてしまっています。
海外ではそうではない。
宗教を持つことが尊重される。
日本人は無宗教を誇らしげに言う。
しかし、向こうではそんな人非常に少ない。

日本人は、宗教というと危ないものと考えているので、
仏教の教えを聞くと、これはどうも宗教とは違うのではないか?
という気持ちが起きてきて、
それで仏教というのは宗教なのですか?
と聞いてくるのです。

相手が宗教と思っているものと生きる意味を明らかにされた仏教とは本質的に違いますので、
違いますといって、
仏教とは因果応報の因果の道理に立脚して本当の生きる意味1つを明らかにされたものだと詳しく話をすればいいのです。

 

孫悟空がブッダに挑戦

孫悟空ブッダに挑戦した話があります。
孫悟空ブッダと力比べです。

孫悟空が山の峰を見つけてそこに自分の名前を書いたと思ったら、
ブッダの手の指だったというものです。

孫悟空というのは最初の頃の私たちのことです。

最初は、仏教を聞いても、自分の考えのほうがいいのではないかと思っています。

ところが、聞いて行くうちに、ブッダの教えというものは、
だんだんととても人智で計れないものと知らされます。

最初は分かりません。
深く知らされれば知らされるほど、
私は何でダイヤモンドを最初から拾ってしまったのだろう
という気持ちになります。
それは時間の問題だと思います。

もし、こういう人に言うなら、
「私の話を聞いてくれ、そして自分で確かめてくれ」
こう言えばいいのです。

生きる意味は人それぞれではないか」聞き始めの頃と同じ質問をしてきます。
「自分の最初の頃と同じだな」
と思います。

金太郎飴のようなものです。
黒人や白人を相手に話をすると、最初は
「どんな事を言ってくるだろうか」
とどきどきしながら話します。

ところが言ってくることは私たちと一緒です。
生きる意味の話をすれば世の中の人の反応は一緒だなと知らされます。
しかし、自分で考えることは大事です。
そうすると真剣に聞法するようになります。

これは自分のこととして知らされることです。

死ぬまで求めるということは?

野球部に入ると、
甲子園に出たら、
プロ野球選手になったら、
レギュラーになったら、幸せだと思います。


ブロ野球選手になれるような人は、ヒットを打てたら、首位打者になったら、大リーグへ行ったら、幸せだと思うでしょう。

イチローくらいになっても、何々したら、きっと幸せって今まで追い求めつづけ、今も求めています。生きる意味は分からないと言っています。

ひょっとして、これは死ぬまで続くのでしょうか。
死ぬまで求め続けるとしたら、悲劇です。

なぜなら、求めるということは求まったということのためであって、求めるために求めているのではないのですから。

絶対に当たらない宝くじを買う人はいないですよね。
絶対に入れないとわかっている女子大を受験しようとする男性もいません。

100%手に入らないとわかっているものを求めることは意味がありません。

きっと幸せ」はまだ幸せでない状態です。

君たちはどう生きるか』という本がベストセラーになりましたが、どう生きたところで、死ぬまできっと幸せになれると思って求めるのは、死ぬまで、結局幸せでないということでないでしょうか。

ただ、きっと幸せと信じて、同じところをぐるぐる回っているような状態です。

ですから、なんのために生きるのかという本当の生きる目的は、完成があるものでなければならないのです。

それを完成してこそ、生きる意味があるのです。

 

やりたいことをやれば幸せになれる?

誰しも自分のやりたいことを思う存分やればきっと楽しく、
満足して幸せになれると考えます。
はたしてそうでしょうか。

これにまつわるボクシング世界チャンピオンだった鬼塚の
興味深い記事があります。

 少年の頃、世界チャンピオンはスーパーマンみたいな存在やと思ってきた
俺にとっては神様に近い存在ですよね。
凡人の俺が、そんな凄い場所に辿りつくことができたら、
いったいどんな凄い人間になれるんだろう。
そのことだけを励みにここまで頑張ってきました。
 しかし、試合に勝ってはみたものの、あるはずのものが何もないんです。
「エッ、何なのこれ? なんで、何もないんや」
「いや、次勝てばきっと何かが得られる」
そう信じて、次から次へと試合を積み重ねていきました。
だけど何も残らない。
 試合が終わった夜は、生き残れた実感と自分が探し求めたものが
何もなかったという寂しさで発狂しそうになりました。
俺は常に素直に飛び跳ねる自分でおりたいのに、充足感がないから、
「何でや?」という思いばかりが虚しく深まっていく。
最後の試合までずっとその繰り返しでした。
(『週刊文春』平成六年十一月)

試合に勝つ前はこの試合に勝てば、何か充足感があるに違いないと思ったが、
結局なかった。
次の試合に勝てば・・・結局最後までなかった。
試合の後は生き残れた安堵感と、何もない虚しさで気が狂いそうだった。

虚しいということは、好きなことをしていても、生きる意味が分からない。あんなに頑張ったのに、何もなかった。
一体どこまで頑張れば生きる意味が感じられるのでしょうか?

最高の仏恩報謝とは?

最高に仏さまのご恩に報いることができるのはどんなことでしょうか?
親鸞聖人はこのように教えられています。

大悲伝普化
真成報仏恩

これは、「大悲を伝えて普く化す。真に仏恩報ずるに成る」と読みます。 

大悲を伝えて普く化す
とは阿弥陀如来のみ心を十方衆生にお伝えするということです。
阿弥陀仏のみ心を伝えるというのはブッダ親鸞 聖人のみ心をお伝えすることです。
親鸞聖人の教えをお伝えするということは阿弥陀如来 のみ心をお伝えするということです。

化する」というのは単に知識を伝えて、
そういう考え方もあるよね」と頭だけ理解されても
化した」とはいいません。
相手が「本当にそうだ」と思って、すばらしい仏教の教えを知らされた喜びから、
それを他の人にも言わずにおれないくらい伝えるということです。

仏教を聞くことができない8つの難所

仏教を聞くのが難しい8つの難所があります。

その中には、「聾盲瘖瘂の難」というのがあります。

」とは耳が聞こえないこと、
」とは目が見えないこと、
瘖瘂」とは口がきけないことです。

それらの障害のために仏教を聞けない、というのが「聾盲瘖瘂の難」です。

これは8つのうち7番目です。

ちなみに8番目は、「仏前仏後の難」といいます。

仏様であるブッダが生まれる前に仏教を聞くことはできませんし、
ブッダが亡くなった後に仏教を聞くことはできない、
ということです。

お釈迦さまが仏教を説かれた後なら、
正しく仏教を伝える僧侶がいれば、
その人を先生として仏教を聞くことができます。

しかし、その時代、正しい仏教の先生と違う国に生まれたら、
本当の仏教を聞くことはほとんど不可能です。

仏教は、ブッダがインドで説かれてから、
中国、日本と、時代によって伝えられている場所が変わってきました。
現在はインドでは仏教はほとんどありません。
中国も共産主義で、ほとんどありません。

とはいえ、日本も葬式法事 仏教となって、ほとんど聞けません。

本当の仏教を聞くには、様々な条件が揃わないといけません。

人気作家の五木寛之氏でも、親鸞聖人に生きる意味の答えがあるのでは、というところまで行っているのですが、生きる意味の答えは知りません。
そういうのも、ある意味「仏前仏後の難」とも言えます。