親鸞聖人の恩徳讃には、身を粉にしても、骨を砕いても恩返しせずにおれないという報恩の気持ちが歌われています。
如来大悲の恩徳は
身を粉にしても報ずべし
師主知識の恩徳も
骨を砕きても謝すべし(親鸞聖人・恩徳讃)
ご恩返しが大きいということは頂いた幸せが大きいということです。
命を捨ててご恩返しせずにおれないということは、命を頂く以上の幸せを頂いたということです。永遠の喜びの生命を頂いたから、身を粉にしても返さずにおれないのです。
そしてそれは 後生の一大事が分からないと分かりません。
本来なら、自分の造ったたねまきによって、因果応報で後生に大変な一大事があるところを永遠の幸せに救われたのです。
本光房了顕もそうでした。
命をかけて親鸞聖人直筆の教行信証を護った人です。
中には本より人の命が大事だろうという人いる。
しかしそれは、教行信証に何が書かれているのか知らないのです。
教行信証には、すべての人が 後生の一大事を解決して、未来永遠の幸せになる道が教えられています。
本光房了顕は、命をかけて、そのすべての人が救われる道を護ったのです。
蓮如上人の責任という人もいる。
しかし了顕は、恩徳讃の身になっていましたので、師主知識の恩は身を粉にしても報ぜずにおれないと、喜んでやったのです。
死んでも極楽。
私たちはどっちにしろ、100%確実に死にます。
早いか遅いかの問題です。
ただ死ぬか、やがては滅びる肉体で、すべての人が救われること、喜ばれることするかです。
根底にあるのは後生の一大事です。