仏教研究室

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にせの信心と真実の信心の違い7つ

にせの信心も、真実の信心も、見た目は同じように見える。

しかし、にせの信心には幾つか特徴がある。

以下の7つの1つでも該当すれば危険。

 

1儀式によって信心を貰う

キリスト教の洗礼のようなもの 

 真実の信心は如来のひとりばたらき。

儀式などを人間が人工的にする必要はない。

 

2信心を貰った年月日時に覚えがなければならぬ、と言う。

実時と仮時 

火傷したのは何月何日

 

3にせの信心は頂いた後は聞く気がなくなる。

真実信心にはそういうことはない。

より聞かずにはおれなくなる。

余計聞きたくなる。


三代市は

「危うげの 無いならなぜに寺参り とぼとぼせずに家で働け」

といわれたとき
「危うげの 無い身にして下された ご恩思えば 家におられず」

と答えた。

 

同じ話を何回聞いても、

初めて聞かせて頂いたような感動で

初ごとと聞ける。

 

4「早く獲させるコツがある」と主張する

 

「信心決定あれかし」と願っておられる

親鸞聖人や蓮如上人などが、

著作に書かれている以上のコツがあるはずがない。

 

5「まだ獲信できんのか」という

 そんな程度の信心ではない。

真実の信心は多生にも億劫にも値い難い信心。

 

予備校に通い始めて1週間で

「まだA判定取れないのか」

就職して2、3日で

「まだ家が建たんのか」と言う人はいない。

 

6「座談会形式(一対一)でなければ信心決定できない」という

 法然上人はどうなる 黒谷の報恩蔵 

覚如上人はどうなる

蓮如上人はどうなる 

大衆の前で説けないような事を言っているのか。

 

7「獲信している者でなければ信心決定まで導く事はできない」という

 

 それではお聖教の意味がなくなるが、よいか?

「お聖教よりも獲信している者の言葉のほうが良い」と言う思いがある。

お聖教以外に、獲信している者でしか言えないような言葉があるのか。

 

教えによって救われる 

教えが抜けて獲信したと言う人の体験談ばかりを問題にする

親鸞聖人はこう仰有っている」と根拠を引いて

そのまま説明すればよい

 

大衆の前で言える教え

体験なら「あの人の前ではいえない」

ということもあるが、教えはいつでもどこでも変らない。