お釈迦様が、今日は、とても大切な話をするぞ。
仏教を聞いた事にならんそうじゃぞ。
大勢の人の前で、今日は大事な事を話すから、心して聞くがよい。
沢山の人がいて、お釈迦様を大切にしていて、一心に聞いている。
それをやめて、その先にいたのが、韋提希夫人。
そして思いっきり愚痴をぶつけてくる。
お釈迦様、あなたのせいよどうしていとこやっているの?
韋提希鬼になっていた。
思いっきりお釈迦様にくってかかる。
そんな一人の前に行くとか、普通考えられないよね。
その時に、阿難尊者、目連尊者、どうして行かれるのですか?
大事な事なのじゃ。
御文章四帖目三通「当時世情」
「これによりて、むかし、釈尊、霊鷲山にましまして、一乗法華の妙典をとかれしとき、提婆・阿闍世(アジャータシャトル)の逆害をおこし、釈迦、韋提をして安養をねがわしめたまいしによりて、かたじけなくも霊山法華の会座を没して、王宮に降臨して、韋提希夫人のために浄土の教をひろめましまししによりて、弥陀の本願このときにあたりてさかんなり。このゆえに法華と念仏と同時の教といえることは、このいわれなり。これすなわち末代の五逆・女人に、安養の往生 をねがわしめんがための方便に、釈迦、韋提・調達・闍世の五逆をつくりて、かかる機なれども、不思議の本願に帰すれば、かならず安養の往生をとぐるものなりと、しらせたまえりとしるべし」
この 御文章の四帖目三通で、私達が、
よく理解しておかなければならないポイントは、
出世本懐の中の本懐。
これは、お釈迦様がその時説いておられた法華経は、
自力仏教の出世本懐経といわれます。
阿弥陀仏の本願を明らかにするのが、
お釈迦様の窮極の目的です。
法華経を中断せられて、浄土の経を説かれた。
ここでは、観無量寿経。
あなたも、人生の中でどうしても、二者択一という事があると思います。
考えてみれば、人生は、選択の連続で、様々に、二つの中から一つを選ぶ。
しかも、二つとも大事なものと思える。
必ず来る、いや、そういうのが一つきてもまた二つ、
三つ来るかもしれないけれど、そういう時に大事なのは、
私がこの世に生まれてきたのは、一体何をする為か、
窮極的な目的は、最終的なゴールはどこか、よく確認して、
その為に、どちらがいいか、選びなさい。
大事な基準は、一体何の為に生まれてきたのか。
それは、仏教に説かれています。
お釈迦様の出世の本懐は、弥陀の本願を説くためにあられますので、
韋提希夫人一人を救うために、大事な法華経を中断せられた。
岸辺でたわむれる子供よりも、池に溺れている子を助けなければならない。
母親、子供が三人、器量があって、人気がある。
そんな子供よりも、悩みをかかえている、そういう子供に慈悲がかかるでしょう。
苦しむ人に、余計に慈悲がかかる。
苦悩の人が正客という事で、悪人正客の弥陀の本願、と言われるわけです。