末代無知の在家止住も男女ならんともがらは、心を一つにして、阿弥陀仏を
深くたのみまいらせて、更に余の方へ心をふらず、一心一向に「仏たすけた
まえ」と申さん衆生をば、たとい罪業は深重なりとも、必ず弥陀如来はすく
いましますべし。これ即ち第十八の念仏往生 の誓願の意なり。
ここまでが、念仏往生の誓願の心。あえて念仏往生といわれている。
かくのごとく決定しての上には、寝ても覚めても命のあらんかぎりは、
称名念仏すべきものなり。
( 御文章5帖目1通末代無知)
かくのごとく決定してのうえには、信心決定しての上には。
第18願の心を体得した、信心決定した上には。
寝ても覚めても南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏と申すべきばかりなり。
これを信心とりたる念仏者とは申すものなり。
(御文章5帖目17通それ一切の女人)
これが歎異抄に念仏者は無碍の一道なり、といわれている念仏者。
さて、この上には、なおわが身の後生の助からんことの、
嬉しさをおもいいださんときは、
寝ても覚めても南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏ととなうべきものなり。
( 御文章5帖目18通当流聖人)
いくら念仏称えてもたすかりませんよ、といわれている
戒められたのは自力の念仏。
いくらとなえても助からない。
親鸞 聖人が3つに分けて教えられたのを、