仏教研究室

お釈迦さまってすごいですよね。一緒に仏教を学びませんか?

仏教を聞くとき早く救われる心がけ

仏法は聴聞 に極まる。

では聞く聞くと言っても、授業を聞いているように聞けばよいか、
ラジオを聞いているように聞いていればよいか、そうではない。

正座をして心を正して聞かなければならない。
これを譬えられた話があります。

あるとき舎利佛が座禅の修行をしていた。
そこに維磨居士がきた。
維磨居士はお釈迦さまのお弟子でなかったけれど、

この人は非常に嫌われ者だった。

それは、その人の欠点をズバッと言うから。
本当のことをずけずけ言う人というのはみんなから敬遠される。
維磨居士もそいう人だった。
舎利佛は維磨居士がきたということで・・

(きたきたきたー、またいやなやつがきたなー)と思った。
「舎利佛今何をしているのか」
誰が見ても分かるのに、何でそんなことを聞くのか。
「見れば分かるでしょ、座禅をしております」

そのとき大喝一斉
「なにそれが座禅か。もしじっと身体を動かさないでいるということで
座禅になるのなら、山の中の木はみな立派に座禅しておるぞ」

これはどういうことかというと、
座禅は足を折り曲げて特殊な座り方をしているのが目的ではなくって、
あくまで手段。
心を集中させることが目的。
舎利佛は心を見失っていた。
「舎利佛、心を正せ」座禅の目的を言われた。
同じようにあなたがここに座って聞いておればよいかと言いと、
そこに心というものがないと聞いたことにはならない。
この道というのは心が変わっていく心の道。
心の道を進んでいくときに、その心が同じだといったらずっと
止まっているだけ。
人生の目的を達成させていただきたいという心で聞かせていただくのが聴聞
それを忘れて座っている、耳を動かしている。
だから同じように仏教を聞いている、といっても
その人によって進む信度というのが違う。