法然上人が、当時の仏教界すべてを敵に回された大原問答は、
1185年です。
仏教学者全員を一人で打ち破られた法然上人は、名声が一段と高まりました。
当時の仏教学者たちとしては、分担して仏教学を学び、
法然上人をぶっ潰そうと思って攻撃したら
余計に法然上人のよい噂をひろめることになってしまったのです。
さあこれでますます天台宗や真言宗、華厳宗や法相宗など、
これらの宗派は衰えていきました。
どんどん法然上人の教えはさかえるようになった。
だけど一度法論して負けたからこれから何も言えません。
ところが何も言わなかったらどんどん浄土宗は発展します。
そして比叡山も興福寺もおとろえていきます。
これは忍耐できませんよね。
さあそこでどうしたでしょうか。
今度は1205年です。
約20年ですね。
ということは20年間、決定的な邪魔はできませんでした。
法然上人の邪魔をしたくて仕方なかったけど、
正式に大原で法論して負けちゃったんだから
もう一回やってくれというような情けないことは言えません。
負けたやないか、まだ不満かということになりますから。
法論で負けたら終わりです。
そこで何を考えたか?
この連中は教えの内容で勝負しても負けること分かったから
権力者と結託して政治権力でつぶそうと結託しました。
それが仏教界と権力者がつるみました。
そして、1205年の興福寺奏上となります。
これは、法相宗の興福寺から、朝廷に訴えがあったということです。
念仏の弾圧が始まったのです。