親鸞聖人は、日本中の僧侶のことを「諸寺の釈門」といわれて、
「諸寺の釈門、教に昏くして、真仮の門戸を知らず」と教行信証に言われています。
教にくらくして、というのは、仏教が分かっていないということです。
真仮というのは、真実と方便ということです。
仏教に教えられているのは真仮だけですので、仏教のことです。
門戸を知らずというのは、門と戸を知らないので、入り口に入っていないということです。
このように、日本中の僧侶は仏教のイロハも分かっていないと非難されています。
ところが、親鸞聖人が9才から29才まで20年間お世話になった比叡山のことはどこにも書かれていません。
諸寺の釈門に入ってはいますが、直接名指しはされていません。
それは、20年もおられて仏教を学ばれたし、
法然上人にあうまでの仏縁を大切にされた、ということです。
それは仏教で大切にされている恩を知られたということです。
教行信証にも、法相宗などの他のところはひどいが天台宗の比叡山には言われていません。
法然上人にお会いして、方便の仏教と知られて言いたかったが、言われていない。
三願転入の中で、あのような道も通らせてもらって、
法然上人にあわれて願海に入られた。
そこで、触れたくないというお気持ちがあったと思います。
さればといって、あそこを回ってこいといってはおられません。
すぐに浄土真宗に入れと言われています。