仏教研究室

お釈迦さまってすごいですよね。一緒に仏教を学びませんか?

一向専念無量寿仏

法然上人が流刑にあわれるとき、お弟子の西阿が破門されているんですが、
そこでの法然上人の大変厳しいお言葉の中で重要なのが
一向専念無量寿」です。

弥陀の本願まことであった、
これこそ永遠に変わらない幸せを与えてくれるものであった、
と知らされる。これが一向専念無量寿仏であります。

蓮如上人の 御文章の中にもたくさん「弥陀をたのめ」と言われています。
つまるところ、しばらくの御縁と仰有る善知識が、
会者定離の運命にある善知識がしばらくの御縁で私達に伝えて下さることというのは、
一心一向に弥陀たのめということであります。

報恩講で信を獲れ、というのは、報恩講で一心一向に弥陀たのめ、といわれて
いるのと同じことであります。

たくさん出てきますが、一例をあげると
 御文章2帖目11通でしょう。
善知識の能というは一心一向に弥陀に帰命したてまつるべしと人を勧むべきばかりなり
とあります。

もう一つあげるならば、5帖目の11通「御正忌」に
一心一向に阿弥陀仏をたのみたてまつる」とあったりします。

では、その弥陀をたのむとはどういうことか。
「たのむ」といっても2つあります。
私達が普通「たのむ」というのは「お願いする」ということです。
そういう時は「〜に」たのむんといいますが、
蓮如上人が使われているところには
全て「〜を」たのむとあります。

ではこちらの「たのむ」とは漢字で書くと「憑む」と書きます。
「うちまかせる」ということです。
今までに「うちまかせる」と使ったことのある人少ないと思います。
「お前にうちまかせたぞ。」なんて。
別の言い方すれば「あて力にする」いや「たよりになったこと」
「あて力になるものは他にはなかったと知らされる」ということです。

昔は「あて力にする」という意味しかありませんでした。
しかし今では「お願いする」という意味もあるので、
いやむしろこちらの意味が強いので、
いちいち説明する必要があります。

どうして「たよりにする」より
「たよりになった」とした方がいいと言ったのかといいますと、
「あなたにとってたのみになるのは増山さんからいないんだから、
増山さんに金貸してってたのめ、ってあの人に言われたの。」
という文章では、ナイス混同してきますよね。

さて、どうしてこういう混同が起こったのでしょうか。

普通「お金を貸して下さい」ってことをAさんにお願いする時は、
私がお願いしてAさんが助けてくれるかどうかはハッキリしていません。
助かってないからこそ「お願いします!」と言うんです。

最近の金融機関は倒れまくり。
それだけでなくて「そごう」も「エステdeミロード」もつぶれた。
それらはメインバンクというのがあって、
自分に万一のことが起こったらお金貸してくれる銀行があったんです。
ところが、返済できそうにないと銀行が判断したら、貸してくれないんです。
だから倒れた。

愛を下さいと言っても、断られることがある。
お願いしたからといって相手が間違いなく助けてくれるとは限らない。
私がお願いしても、向こうさんが助けてくれるかどうかは分からない。

しかももうちょっと言えば、どうせたのむのなら
私を助けてくれる人にお願いしなくてはいけません。
大正生命ってのが倒れたのは、詐欺にあったんです。

「あなたどうか助けてくれませんか。あなたしかいないんです」
とか言っても、お前さんざん嘘ついてたじゃねぇか、
帳簿も改ざんしてばっかで、嘘つきやがって、もう金貸すもんか!
ってつぶれていったんです。

私を助ける力のない者に対して
「お願いします。」
と言って助けてもらえずに倒れたんですね。

ところが「弥陀をたのんだ」というのは、
銀行に金を借りるというのとはたくさんの点が違っています。

第一に違うのは、目的です。さっきのは金を下さい。
愛を下さい。
しかし阿弥陀如来 のすくいというのはそんな表面的なものではなくて、
後生の一大事が目的なんです。
これを抜かれない限り、私たちは助かるということはないんです。

しかし、手がつけられないことには、私たちに「阿弥陀様、私を助ける力があ
るのはあなたしかいないんです。
どうか一つ私を助けて下さい。」という心がからっきしないんです。
私たちは自分にはあると思っているんですが、ないんです。
金や愛なら欲しがるが、阿弥陀仏にお願いする心はないんです。

だから、阿弥陀仏がそのお願いする心も作って与えて下さって、
その心でまことの阿弥陀仏を信ずる。
そして「阿弥陀仏しかなかった!」とハッキリする。
まことをまことと信ずるまことの心を阿弥陀仏から頂いて、
その心で「弥陀をたのんだ」というのが一向専念無量寿仏なんです。

これが他力信心です。
信後は他力なんです。
それまでは自力。自力信心であります。

報恩講で信を獲れ

報恩講で信を獲れ、
 御文章の4帖目第15通にあります。
これを書き終わられて、蓮如上人は最期息を引き取られます。


報恩講にちなんで書かれている御文章を見てみますと、

4帖目の15通だけではなくて、

8通7通6通5通とあります。

蓮如上人が1年に1度だけ、お年を召された蓮如上人が、

何としても門徒の方に伝えねばとの思いから書かれたものです。

だいたい70歳前に、年に1度だけ書かれている御文章が4帖目に続きます。


それも11月、報恩講の時節にあたって筆を持たれた。

末代の人たちに、どうしてもこのことを書き置かねば、

死んでも死に切れんという思いが伝わります。

 

蓮如上人のお年を現代にあてはめてはいけません。

当時の平均年齢は50歳といわれます。

さらにお若い頃から連日の御説法をなされていたのです。

今なら57歳と聞いても現役のように思えます。

ところが当時は違います。その57歳であられた蓮如上人が、

毎日のように手紙を書かれているのです。

1帖目6通に「睡眠」というのがあります。

そこで上人は、ワシはもうだいぶ年をとった。

人間はいつ死ぬか分からない。

蓮如はいつ死んでも構わないように毎日送っている。

ところが、みんなはまだ死なんまだ死なんと油断しきっている。

これでは蓮如は死に切れん、とのお言葉です。

ところが、まだ当時、蓮如上人は三頭の駿馬を走らせ、

御説法に立たれていたのです。

その合間をぬってお手紙を書かれています。

 

3帖目の9通も11通も、報恩講にちなんだものです。

ここからも分かるように

蓮如上人は報恩講で信を獲れと繰り返し言われています。

 

幸せになるにはどうすればいいか

 私達が幸せになるにはどうしたらよいのか?

 

それを理解するためには業力ということをしらなければならないのです。

業力というものは私達の行いには力があるのです。

その業力は大象100匹よりも強い力をもっているのです。

 

 昔の歌に「年ごとに 咲くや 吉野の山桜 木を割りてみよ 花のありかは」

という歌があります。

吉野山は山全体が桜が咲いていて山が桜か、桜が山かというような様子なのです。
 
 その吉野山に冬にいってみると桜は一本も咲いていなくて

枯れ木が何本か立っているだけなのです。

その桜の木を切ってみても桜の花はひとつもないのです。

しかしその桜の花は枯れ木でない限り、

桜の花を咲かせる勢力みたいなものがあるのです。
 
 ちょうどそれと同じように私たちの人生にも幸せとか不幸とかやってきます。

希望していた大学に合格ができたとか、希望の会社に就職することができた。

また、自分がすきであった人に結婚式 をすることができた。

これは桜の花が咲くように幸せの結果が現れてきたことなのです。

 また、よいことばかりではなくて、わるいこともあるのです。ではそのよう
な運命は何によってきまるのか?それは行い、業によってきまるのです。

しかしながらあなたが親切をするとか、人にあいさつをするとか、

掃除をするとかいろいろなことがあります。

 みなさんがしているいまの格好はよそ行きの顔ですし、

よそいきの格好です。

人間は他人にたいしてはいい格好をしようとしています。

そのような所は私達には多少なりともあります。

 しかし私達の種蒔きはよいことも悪いこともすべて蓄えられているのです。


しかし悪いことをしても縁がなければ結果は起きません。

これはさきほどの桜の花でも春という縁が来て桜の花が咲くように

私達の種蒔きも縁と合わさって結果を生じるのです。

 勉強でも、試験があるときに一生懸命勉強をしても、

勉強したのに、当日に体調が悪かったり、

自分が勉強していないところが試験にでることもあります。

それは縁と結び付かなかったからであって、やった勉強は必ず結果を生じるのです。

 

 少し勉強して結果が生じなかったからといって

勉強をやめてしまうことがありますが、それは

因果の道理からすればまちがったことなのです。

人生の目的を知って喜べる

20世紀は、情報の時代といわれています。

世界一の長者ビルゲイツマイクロソフトなどの開発で成功しました。

21世紀は、「生命科学の時代」という人が多くいます。

臓器移植、遺伝子診断という言葉をよく聞きます。

脳死が人の死の認められて、臓器を移植でいるように成りました。

今まで、心臓、肝臓などを患っていて、直る見込みのなかった人も、

臓器移植のおかげで、命をのばすことが、できるようになりました。

また、人遺伝子の解明が急速に進み、大筋において解明できました。

これをヒトゲノム計画といいます。
人間の身体は、約60兆の細胞からできています。

細部の中に、核が、その中にある染色体は、DNAからできています。

そのなかで、遺伝子情報をになっているのが遺伝子といわれるものです。

この解読が進むと、将来、どのような病気に

どの程度の確率でなるかがわかるようになります。

その将来病気を発症する箇所を事前にしり、発症する前にしり、対処する。

画期的なことです。これを、遺伝子治療といいます。


また、人体の特殊な細胞を取り出し、培養すると、

人体のどのような箇所にもなる万能細胞を造れるように成り、

これからは、故障したり、病気になった箇所を、

ロボットの部品を交換するのと同じようにできるように成ってきています。

肝臓、膵臓は、約10年後には、できる。

心臓でも、21世紀半ばには、実現するといわれています。
これらのな目的は、ただ一つ、少しでも命を延ばすということです。

一分でも、1秒でも命を延ばそうと医学は、必死です。
ところがこのようなことがありました。

アメリカで心臓移植をうけ人が、移殖を受けるまでの、心の苦悩をかたっています。
心臓病をわずらい時、症状が悪化し、心臓移植の希望をだしました。

当時、移殖手術を受けなければ、あと、1年半とのことでした。

その間の心境を、このようにかたっています。
「平和な日々の暮らしが、心臓発作の一撃で、いつも断ち切られてしまう。

私は、テレビのチャンネルをかえては、自動車事故、強盗殺人、

自殺といった不幸な ニュースをあさっている。

頭は、怪我をしていても心臓は無傷、

しかも脳死になっている事故ならなんでもいい。

この異常な行動は、私には、当たり前のことだった。

生き延びるためには、人間の常識をこえねばならなかった」
と記しています。

また、いっています。
「なぜ彼らが、死んで、私が生きているのか。」と。
つまり、なぜそこまでして生きねばならないのか。

という悩みであった。

この男性も、今後また、病状が悪化したら、また移殖手術が必要になってくる。
しかし、彼はいう。
「再び移殖を受けられるほど、自分は強いだろうか。

 あの精神的ショックを経験してまで移殖手術を受ける価値があるだろうか。こ

 うした問いが、心に浮かばない日はありません」


人間だれしも死にたくない。臓器移植をしななければ死ぬと宣告されたら、

誰もが、人の死を願うこころもでてくるだろう。

しかし、いくら合法的な手段にしても精神的ショックがあったと告白しています。
何の為の延命なのか。

どんな手術をしても生きねばならないのはなぜか。

人間は、何をする為に生まれてきたのか。

この人生の目的があきらかになっていなところに、

延命に成功しても喜べない、苦しみ悩みのもとがあるのです。

もしも苦しみばかりの人生ならば、生きれば生きるだけ、

苦しみが延びることになってしまいます。

それでは、医学の意味が宙にまってしまいます。

では、一体、人生の目的はあるのか。あるのなら、人生の目的となにか。

この人類最大の問題に、答えられているのは、釈尊です。

「人身受け難し今已に受く 仏法聞き難し今已に聞く。

 この身今生に向って度せずんば

 更にいずれの生に向ってかこの身をどせん。」

とおっしゃっています。


「人身受け難し今已に受く」人間にうまれてきてよかった。

という生命の歓喜

人生の目的はあるんだぞ。

その人生の目的は、達成したなら、人間に生まれてきてよかった。

という慶びがふきあがってくるとおっしゃっています。

「仏法聞き難し今已に聞く」

仏法に出遭えてよかった。仏法聞けてよかった。

人生の目的を教えているのが、仏法ですから、

その仏法を聞けてよかったという慶び。

釈尊はまた、
「人生の目的をしらないで100年生きるよりも、人生の目的を知って、

1日生きたほうがはるかにすばらしい。」
ともおっしゃっています。
いかに、人生の目的がたいせつか。

 

 

三重廃立

親鸞 聖人の教えを一言で言うと三重廃立の教え。
教行信証は三重廃立の教え。
教行信証真宗の根本聖典、略してご本典、全六巻

親鸞聖人の教えは教行信証を読めば全部分かる、

読まないと全部は分からない。

聖人52歳の時に書き始められた、

90歳でお亡くなりになるまで筆を加えられた。
一字一類の思いで書かれた。一字一時選んでかかれた。
教行信証の中に明らかにされているのが三重廃立の教

三通りの捨てものと拾いもの


仏教の説き方に廃立と隠顕
今日の論理学では廃立は比較法、

穏顕は反顕法
それぞれ一長一短ある。

廃立、Aはよい、Bはだめ
長所ははっきりする、間違えないのがよい、

欠点、Bさんが聞いたら腹を立てる。
お嫁さん選び、AさんとBさんの候補者、

恩師の人が「Aさんがいい、Bさんだめ」
Bさん聞いたら腹を立てる、恩師にいかりを覚える

穏顕、「Bもいいけれども…」
表面的にはBもよいといっているけど

Aさんはもっといいということを暗に言っている
良い点、Bが聞いても悪い気がしない、
欠点、あまり勘のよくない人は勘違いをする、

Bさんがいいと思っている人はBさんを選ぶかもしれない。

 

親鸞聖人は廃立、

当流は廃立肝要なり」(ご遺言鈔)
廃立の教が聖人の教え

真宗の門においては幾たびも廃立を先とせり」(改邪鈔)
廃立肝要、会館にもかかっている。
なぜ聖人は廃立の教え方をされたのか。

Bに当たる人は腹を立てる、実際聖人は権力者、他宗教の人たち、

ひいては法然上人のお弟子、お友達から非難攻撃された。


人間関系においては隠顕の方がスムーズに行く。
少々こちらでもいいということは日常茶飯事、

「こうでなかればならん」というのは少ない。


親鸞聖人は聖徳太子を大変尊敬しておられる。

聖徳太子の十七条憲法「和するをもって貴しとす」
みんなが協力し合って和というものができる。
自分も仲良くなるように努力する。

親鸞聖人も「和することを尊し」とされた。

和することを貴しとされなかった聖人が廃立されたのでない。

なぜ廃立されたのか。

 

間違えてはならないときは穏顕の言い方はしない、
100%やってくる大問題だから。

近い未来かならずやってくる。
燃料系切れた飛行機が墜落という大問題、空港は一つしかない、
このまま行けば燃料系ゼロに成って海に墜落。
「墜落してもいい、飛行場に着いても言い」

というものではない、ここだけは絶対に譲れない。
間違いなく着陸する、でないと大変なことになる
どこにも飛行場がない、ここにもそこにも飛行場が有るならいい。

一つしかなかったらそれを目指すしかない。
聖人飛行場で言うなら「ここに着陸しなければ墜落しかないんですよ」
絶対間違ってはならないものがある、

でなければ聖人が廃立されるのは考えられない。

 

なぜ仏教が宗教と言われているのか

なぜ仏教宗教と言われているのか。

 

江戸時代までは仏教イコール宗教でした。

宗教というのは私たちにとって一番大事なことを教えたものです。

 

明治維新があって鎖国が解かれてから、

西洋からキリスト教イスラム教などたくさんの教えが入ってきました。

それまでは、日本には道教儒教仏教の三教というものしかなかった。

 

 ところが、明治以降たくさんの教えが入ってきたので、

それを全部まとめる言葉が必要になった。

平田篤胤神道以外の全部の教えを宗教と呼んでしまえ、

ということで、今日仏教も他の教えも全部宗教と呼ばれることとなった。

全く違うものまで全部、宗教と呼ばれている状況です。

 

全く違うものを同じものと呼んでしまったら大変なことになる。
言葉の乱れは、思想の乱れと言われる。

言葉は正しく使わないといけない。

 

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幸せを求めても幸せになれない理由

すべての人は幸せを求めているが、幸せになれないでいる。

なぜ苦しんでいるのか。病気や、お金がないから、

地位や名誉がないから、と考える。

しかし、それらがある人も苦しんでいる。

なぜか。

 

私たちが生まれたというのは、飛行機で言うと、

飛行場を飛び立ったと言うことです。

やがては燃料が切れて降りなければならない。

しかし、降りるところがないと、真っ暗な心で墜落しないといけない。

すべての人は生まれたら必ず死んでいきます。

100%確実な未来が死です。

今死んでいくときに胸一面を覆うのが、真っ暗な心です。

現在、安心満足な生活を送れないのは、

死んでいくときに真っ暗な心がでてくるからです。


明日は土曜日となったら、いつまでも寝ていられる。

金曜日は花金、と言われる。

日曜の夜になると、明日から月曜日、退屈な仕事、

ということで暗い心になる。

明日がデート、となると、前の晩から興奮して眠れない。

明日が手術となると、手術があるのは明日だけれども、

今日から暗くなります。

私も鼻の手術をしたことがあったが、手術自体は2週間後だが、

前々から真っ暗な思いをします。未来がくらいと現在から暗くなります。

 

なぜ心から明るい人生を送ることができないのか。

未来に真っ暗な死というものがあるから、現在も暗くなる。

今死ぬとなったときに広がる真っ暗な心を無明と言います。

降りるところがハッキリしていない、というのは、

自分の未来がどうなるか分からない、ということ。

 生きるためにとにかく生きる。飛ぶために飛んでいる飛行機と同じ。

墜落あるだけです。


ちょうど、真っ暗なところで目隠しをして、

とにかくぶつかるまで走るだけだ、というのと同じです。

穴があるかも、壁があるかも分からないまま、走るのと同じです。

安心して走れる筈がない。

降りる飛行場がハッキリしていない、というのは

目隠しして真っ暗な所を走るのと同じです。

ものが豊になっても生命の歓喜がないのは、

未来がハッキリしていないからです。

死んだらどうなるか分からない、真っ暗な未来に向かって生きているので、

現在も暗いのです。

 

暗い心が明るくなるのは、

いつでも降りることのできる飛行場が見つかったときです。

 

降りられるかどうかハッキリしていないと、

機内食を食べようが、映画を見ようが、楽しめないです。

 

ダイハード2は、空港がハイジャックされて、電源が切れてしまう。

滑走路が見えないので、飛行機が着陸できない。

飛行機は上空でぐるぐる回る。

他の飛行機も同じようにぐるぐる回る。

 そんな降りられるかどうかハッキリしない飛行機に乗っていれば、

安心できるはずがない。

なぜ心から安心できないのか。

未来がハッキリしていないからです。

いつでも降りられる飛行場がハッキリして、

未来が明るくなるということです。

 

現在生きているときから、明るく楽しい心になります。

この明るく楽しい心を、信楽と言います。

いつ死んでも悔い無し、という信楽の心になるのが、
すべての人が求めているものです。

 

逆に幸せになれないのは、

未来がハッキリしていないからです。

 

ではどうすれば未来がハッキリするのかは、

仏教に教えられています。