仏教研究室

お釈迦さまってすごいですよね。一緒に仏教を学びませんか?

宿善がどれくらい大切なのか

宿善がどれくらい大切なのかいくつか紹介したい。

宿善まかせという言葉までありますね。
宿善まかせ。
人生の目的を果たせるかどうかはまことに宿善まかせという言葉がある。
宿善によって決まる。

病気になったら医者任せ。
その病気が治るかどうかは医者によって決まる。
名医に診て貰えば治るし、やぶなら死んでしまう。

この間ラジオを聴いていたらO型の患者にB型の血液を輸血して死んでしまった。

O型のNくんにB型のSくんの血液を輸血した。
そしたらNくんは死んでしまった。
これは医者が悪い。
病気になったら医者任せ。
車に乗ったら運転手任せ。
助手席の人がブレーキ踏めといっても踏むのは運転手。
後ろの乗っている人が『空飛べ』それは無理だ。
ハンドルを握っている運転手任せ。

農家の人は天気任せ。
今年は雨が足らないなあ、今年は日の光が足らない、
天候によってお米の収穫はまるっきり違います。
それを天候任せという。

人生の目的が果たせるかどうかは誠に宿善まかせ。
宿善によって決まる。
宿善に限れり、こんな言葉もある。
これ以上強い言葉はないね。

苦悩の根元、無明の闇が破れるかどうかは宿善に限れり。
これまた強い言葉。
無宿善力及ばず。
宿善がなかったらどうしようもありません。

宿善のない人は力及ばず。
残念ながら無明の闇を晴らすことはできません。
こういう御言葉が教えられていますが如何に宿善が大切かが分かる。

その宿善が自分にあったと言うことは大変慶ばなくちゃいけない。
どんな才能に恵まれるよりどんなお金持ちの家に生まれるより俺は記憶力がいい、
オレは数学の才能がある、物理ができる、語学ができる私は美人、
オレは足が長いへそが出ている、
どんなものに恵まれるより宿善があったことが有り難い。

聞法心があった、仏法聞こうという気持ちがあった。
尊いこと。
これがなかったら始まらない。
これが一番最初なんです。
だから、まず聞法心。

仏教とは

仏教というとこれは読んで字の通り、仏の教え。
仏の説かれた教えと言うことですが、世間で誤解されているのは、
仏さまというのは何か死んだ人間のこと。
死人のことのように思われがちですけど。

仏教というこの仏というのは死んだ人間のことではなくて、釈尊のことです。
釈迦という、2600年昔印度で活躍された方のことですね

私たちは人生について学ぼうとするときに、自分一人でね、人生を学ぶ。
それは非常に気持ちはよく判るんだけども、学問でも何でも、
過去そのことについて偉大な発見をした人、学問的な業績を納めた人、
その人の業績を学んでから勉強する。

今から万有引力の法則を発見しようと言う人はないし、
今からピタゴラスの定理を証明してやろうという人はない。
それを時間の無駄という。
既に明らかになった真理についてはそれをそっくり学び取ることが大事。

人生に於ても同じです。
このお釈迦さまという方はその点で、私たちの人生について
たくさんのことを教えて下さる最高の方。

山田かまちは感受性のある、また天才を感じさせる。
でも残念ながら彼には人生について教えてくれる先生がなかった。
私たちは、過去多くの人が人生に悩み傷つき、ある人は成功しある人は失敗した。
その人生の先輩達の歩いてきたその軌跡を学んで
そこから更に自分の人生を進んでいけばいい。

そう言う点でこのお釈迦さまに勝る人生の先生は居ない。
世界の四大聖人と言っても三大聖人といっても
真っ先に指を折る方がお釈迦さま。

そのお釈迦さまの解かれた教えが仏教という教えだから
決して古いものでもなければカビはえているものでもなければ、
年を取って人生やることなくなって仏教をやろうかというものではない。

若い人ほど、自分の人生を本当に実りあるものにしたいという人ほど
私は仏法を聞いて貰いたい。
そのお釈迦さまの教えられた教えが仏教という教え。

韋提の権実

韋提希夫人はお釈迦さまに導かれ、

とても善のできるような私ではない。
極楽どころか地獄しか行ようのない自分でありました
と知らされました。


後生の一大事に気付いた苦しみです。
また、無明の闇の苦しみです。

そうした韋提希に、お釈迦さまは次にどんなアクションをされますか。
今から除苦悩法を説くぞといわれ、阿弥陀仏にバトンタッチされています。
そして信楽の身になっています。
非常に短い中に、ひもとけば大変深い内容です。

この世で初めて阿弥陀仏に救われた韋提希夫人。
その韋提希夫人は、権仮の人だ、と言ったのは、
今から1300年前中国の、天台・浄影・嘉祥でありました。
当時の中国ではこの観無量寿経が話題になっていた。
あんな韋提希が救われている。
難度海の人生が光明の広海に変っている。
そこで、中国の仏教の歴史にその名を残す、
天台宗を開いた天台のようなものたちが、
それぞれ、観無量寿経の解釈をしました。
これらの人たちはそれぞれ一宗一派を開いた人たちです。

「権化」というのは、山で修行したようなこともない韋提希が51段高飛びしている。
聖道自力の仏教の代表格の彼らには、にわかに信じ難いことです。
一段一段必死な思いでよじ登っているものにとっては、あっと言う間の一念で
救われるなんてことはあってはならないんです。

「満願」とは、私たちの身の上に、阿弥陀如来 の願い、
今生は正定聚不退転、死んだら極楽浄土で弥陀同態の覚り、
という身にしてみせるということです。

「難思の弘誓」といわれますように、私たちでもよく分からないですが、
聖道自力の仏教をやっている人たちにとっては、
もっと分からないことだったのです。

だから、過去世において相当の覚りを開いていたのが韋提希で、
そして今生、釈尊のお導きにあって覚りが開けたんだと解釈したのです。

そこへ「善導独明仏正意」と善導大師が現れ、
こんな解釈では釈尊の出世本懐がねじ曲げられている。
韋提希は「心相羸劣」と経典にあるではないか、
泥泥の泥凡夫「実凡」であったのだ、と明らかにされました。

そういうことを踏まえた上で、親鸞 聖人は王舎城の悲劇のヒロインである韋提
希夫人をどのように見られたか。


善導大師を大変尊敬されていた親鸞聖人が味わわれた王舎城の悲劇が、
教行信証の「権化の人」と言われています。
韋提希だけでなく、王舎城の悲劇の登場人物全てを
仏さまの化身だと味わっておられます。

善導大師と違います。
ここで反旗を翻されたのか。

天台らは自分たちの理解にあわせて教えを曲げました。
下からのぼってきた聖者、これが韋提希だ。
過去世は高い覚りをひらいていた。
そういう意味で「権化」と言ったのです。

親鸞聖人は、諸仏方が、仮に韋提希たちの相となって、
演じて見せて下されたドラマであると味わわれたのです。
ではなぜそんなドラマを演じられたのか。
ただ本願があるということを知らせるだけでありません。
どんな極悪人をも救い摂る、その本願の現存をいかに十方衆生に周知徹底するか、
ひとえに念じられる諸仏方の壮大無類のドラマなのであります。

親鸞聖人の明らかな体験から、どうしてこんな身になれたのか、
諸仏方がドラマを演じて、弥陀の本願を明らかにして下されたなればこそだと、
そういう親鸞聖人の韋提希夫人の味わわれ方は「権化」であります。

教行信証の冒頭、難思の弘誓があるぞ、無碍の光明があるぞ、
と断言なされた続きに、この王舎城の悲劇を出しておられるのです。
その後で、「あ〜、弘誓の強縁は多少にもあいがたく」と書かれているのです。

善導大師と親鸞聖人はまったく違っていたのかといいますと、
そうではありません。
弥陀の本願を明らかにする、このことでは全く同じでありました。
一念で泥凡夫を信楽と救い摂る、まさに難思のお約束なんですが、
それを善導大師は「実凡」が助かっている、ということで明らかにされ、
親鸞聖人は「権化」のドラマにしか思えないと、明らかにされたのです。

出世の本懐は天上天下唯我独尊

出世の本懐
天上天下唯我独尊 三界皆苦吾当安此」(釈尊
天上にも地上にも、人間(我)のみの独尊あり
他の動物には、因果の道理を弁えることも、無上仏の本願を聞くこともできぬ。
人間のみ、仏法を聞くことができるから、人命が尊いのである。
「人生(三界)はみな苦なり」
地震、雷、火事、洪水、噴火、境界争い、裁判沙汰、交通事故、嫌な人間関係など
衆苦充満しているから三界の獄ともいい、人生は四苦八苦ともいわれる。
悩み絶えなく終る一生なら哀れというも愚なり、である。
「吾(釈尊)当に此に安んずべし」
その苦しみの中にありながら安らかな楽しい世界がある。
一切の人々は、この無碍の世界に出る為に生れてきたのだ。
万人共通唯一の、出世の本懐を教示なされた釈尊のご金言である。

 

天上天下唯我独尊のビデオはこちら


【第4話】天上天下唯我独尊(お釈迦さま)の本当の意味とは?

 

家庭でお話をしようとすると、飼っている犬や猫が会合に来る。
だけど、他の動物には因果応報をわきまえることはできない。
それができるのは人間だけ。
弥陀の本願も聞くことはできない。
そういう中、人間に生まれることができた。
そして人間のみ仏法を聞くことができるから、人命が尊い
人生は苦、苦しみが充満している。
火宅無常の世界だから、何をしても人生は苦なり。
これではなんのために人間に生を受けているか分からない。
無明の闇が弥陀の本願力によって破れる。
独尊、無明の闇をぶち破る弥陀の本願を聞くこと。
もし法然上人にあわなければ、このたびむなしくすぎなまし。
これを、

噫、弘誓の強縁は多生にも値いがたく、

真実の浄信は億劫にも獲がたし。

遇行信を獲ば遠く宿縁を慶べ。

若しまたこの廻疑網に覆蔽せられなば更りてまた昿劫を逕歴せん。

ともいわれている。

弥陀の本願に救われて最高の山の頂上に上られた。
そこから千尋の谷底を見られてのお言葉。
危ないところだった。
だから、この一大事解決一つの為の人生。
その弥陀の本願を聞く心構えとしては、

これ一つの人生だから、いい加減ではもったいない。
人間に生まれた目的は弥陀の本願力によって六道を出離する。
そのための人生。
それ一つの為に向かう人生ほど素晴らしい人生。
野球部員は野球する。
野球をしている人こそ、それらしい人。
人間らしい人間、その目的である、仏法を聞いている人ほど、

人間らしい生き方はない。
ところがその人生の目的に向かう人を、それじゃダメでしょという人もいる。
それは人生の目的が分からない。
もちろん手段も大事だが、反対になってはいない。
馬の脚に馬蹄をつける、馬がいなければ馬蹄をつくる意味がない。
今こそ果たすべき大事があるから、それに向かいましょう。

皆さんも早く出離の強縁にあってくださいということ。

 

輪廻転生から離れる道

高僧和讃

昿劫多生のあいだにも
出離の強縁しらざりき
本師源空いまさずは
このたびむなしくすぎなまし

高僧和讃とはどんな和讃か、七高僧の書かれたもの、
これは法然上人について書かれたお言葉。
源空上人とは法然上人のこと。
法然上人から教えていただくことがなければ、
親鸞 またむなしく地獄におちていたといわれている。

今の中にもし法然上人におあいしなければ

親鸞また地獄におちていただろうといわれている。

ここで、親鸞聖人、
昿劫多生のあいだと言われている。
昿劫とはどんな意味か。
たいへん長い間。
多生は、私たちは今まで生まれかわり死にかわりを何回も繰り返してきた。

輪廻転生
その間、知らなかったことを今知った。
それは出離の強縁。
過去無量劫において知ることのできなかったことを今知ることができた。
出離の強縁とはなにか。
阿弥陀如来の本願のこと。
今回の御説法は、弘誓とは阿弥陀如来 の本願のこととあったが、
親鸞聖人は教行信証の最初から、最後まで阿弥陀仏の本願一つ明らかにされている。

お釈迦さまも

如来所以興出世

唯説弥陀本願海

阿弥陀仏の本願一つ教えられた。
ここでは、出離の強縁。

仏教の結論を強調する人ほど激しい攻撃を受ける

五濁の時機いたいては
道俗ともにあらそいて
念仏信ずる人をみて
疑謗破滅さかりなり(正像末和讚)

「一向専念無量寿仏」を強調する人ほど、
激しい疑謗破滅がやってくる、
と教えられた親鸞聖人の「ご和讚」

五濁とはどんなことですか?
阿弥陀経にあります。
劫濁、見濁、煩悩濁、衆生濁、命濁。

劫濁・・・天変地異がふえる
見濁・・・思想が乱れる
煩悩濁・・・煩悩をかきたてるものがふえる
衆生濁・・・争いがふえる。
命濁・・・寿命が縮まる。

「道俗」とは仏法を説く人、聞く人も、
「共にあらそって」とは先を争ってということです。
先を争って念仏信じる人を疑謗破滅するのだということです。

親鸞聖人、90年の生涯は疑謗破滅の嵐の中を、
一向専念無量寿仏伝えられました。
親鸞聖人が激しい嵐の中を一向専念無量寿仏を叫んでおられます。
八方総攻撃の的になられたと言われています。
29歳で弥陀の本願に救いとられた親鸞聖人は
直ちに法然上人のお弟子になられまして、
一向専念無量寿仏を叫んでいかれました。
31歳の肉食妻帯によって、色坊主、堕落坊主と非難を受けました。
34歳の御時には三大諍論によってお友達から背師自立の横着者と言われました。
35歳の時には権力者から流刑にあいました。
84歳の時には、善鸞の義絶によって親鸞聖人の生涯は八方総攻撃の的でした。

苦悩の根元を説かれたお言葉

苦悩の根元を親鸞 聖人が教えられた正信偈のお言葉は

還来生死輪転家

決以疑情為所止正信偈

「生死」とは苦しみということ、
「輪転」とは無限ということ。
「家」とは離れられないということ。
「還来」とは繰り返すということ。

苦悩渦巻く人生を際限もなく行ったり来たりする。
「決する」とは一つで決まるということ。
疑情が晴れないからとどまる。
苦悩が際限もなくやってくるのは疑情一つによる。
要するに私たちの人生の苦悩の根源は疑情一つということ。

その続きは

速入寂静無為楽

必以信心為能入

「速やかに寂静無為のみやこに入ることは、

 必ず信心を以て能入と為すといえり」と読みます。

阿弥陀仏からまことの信心を賜ると、寂静無為の楽に入る。

迷いの打ち止めをするためには苦悩の根源の疑情を晴らさなければならない。
「寂静無為の楽」は

阿弥陀如来 の極楽浄土に行って弥陀同体のさとりを開かせていただく。
それは信心一つである。
疑情があるとこの世も暗いが未来も暗い。
信心一つでこの世も明るく、未来も明るくなる。

このお言葉は親鸞聖人が法然上人のおっしゃったことを言われている。
「いえり」というのは法然上人がおっしゃったということ。
法然上人の選択本願念仏集に書かれている。
法然上人がこういうことをおっしゃったと親鸞聖人がおっしゃている。

選択本願念仏集を明らかにされたのが教行信証

選択本願念仏集の心を少しでも多くの人に

わかってもらうように書かれたのが教行信証

法然上人が親鸞聖人に教えてくださったことは、

私たちが苦しみ悩んでいるのは疑情一つ。
それが阿弥陀如来の本願によって一念で救われる。
信心一つで救われる。

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