仏教研究室

お釈迦さまってすごいですよね。一緒に仏教を学びませんか?

あなたはいつ仏教を聞きますか?

あなたは仏教を聞きませんか?

『仏法?まだわしは若い』
『お爺さん何才ですか』
『80歳だ』

そういう人がいる。

80歳のおじいちゃんが若いと言っている。
毎年12月年末になると年内になくなった方の名前が報じられます。

有名人では、小渕首相も亡くなりました。
4月の2日に倒れて5月の14日だったと思いますが亡くなった。
西暦2000年を記念して2000円札を作ったのも小渕さん。
沖縄サミットを開いたのも小渕さん。

日本のために頑張ろうとあちこち電話を掛けてブッチホンと言われた小渕さん、
長い間日本を動かしてきた小渕さんを陰で動かしてきた竹下さんも亡くなった。

アンディフグも亡くなった。
まだ35歳ですよ。
ジャンボ鶴田さんも死んだ。
どんなに肉体が強くても死ぬ。
40いくつ。
フィリピンに行って手術が失敗して亡くなったと言われていますが。

どんな人も必ず、必ず死ぬのが生きている者の宿命なんですね。
今ここに、七十名か八十名の方で
写真を撮って10年たって、あの時撮ったあの写真だなあ。

みんないるかな。
『いる保証はありません』
オレだけはいるぞと思っているだろ。
いやあの人いないな。
彼女がいないな。
彼いないなどうした。
事故で死んだ。

30年後に見たらどうかな。
どう?もっといないだろうね。
あなたの30年後。
あなた幾つ?
それまで生きておれるか?
70年後どうかな?
ほとんどいないね。

100年後。
誰もいない。
いよいよカレンダーをめくって12月。
今年も最後の一ヶ月だな。
考えてみれば、12回カレンダーをめくれば一年終わりです。
それを70回繰り返せばほぼ人生終わりだ。

早いもんだ。
アッという間。
既に家の庇に火がついているのにのほほんと構えている。

諸行無常の世の中、急いで仏教を聞かなければ聞かずに死ぬ。

 

浄土真宗で教えない親鸞聖人の論争

現在の東西本願寺はじめ浄土真宗十派では、三大諍論教えない。
教えたら自分の首をしめる。
坊主と言っても無知なんです。

たとえば親鸞 聖人と善慧房証空との体失不体失往生 の諍論。
この体失不体失往生とはどういうことか。

往生とは、救いのこと。

親鸞聖人は不体失往生。
善慧房は、体失往生。

始め、証空が
「皆さん。釈尊がこの世にお生まれになったのは、
 阿弥陀如来の本願一つを説かれるためでした。
 死んだら助ける、有り難いお約束です・・・」

そこで親鸞聖人が、
「お待ち下さい。この親鸞は、ただ今救いたもうた本願を喜んでいます」
死んだら助ける。
ただ今救う。
全然違う。
善慧房と言えばすごい学者。
世間の人には法然上人の弟子の中で、この善慧房が一番頭がよい、という学者もいる。
まだ親鸞聖人はお弟子になったばかり。
その善慧房に向って、真っ向から反する事を言われた。

「何を言われる親鸞殿。今救われたとな、そなたは。
この世はどうにもならんもんじゃありませんか」

みんなそう思っている。
この世で救われる。
そんなことあるかい。
この世は娑婆と仏教でも言うだろう。
科学が発展した。
文明が進歩した。
やがて21世紀になろうが、善慧房と同じ
じゃないですか。
学校の先生が犯罪を犯す。
消防士が火をつける、政治家が、汚職する。
いつの時代でも、同じだ。
独裁制ではダメだ。
民主制でないと。
しかし民主主義になったが、大統領決まらん。
時間かかる、お金かかる。

チャーチル
「民主制は最低の政治形態だ。ただし、民主制以外のすべての政治形態を除いては」
といっている。
彼らしいね。

せめて死んでから幸せになるか。
ああ、阿弥陀様、ありがたい。
善慧房は全人類の代表。
クリントンも「ヒラリーに頭があがらん」
森総理も
「野中に頭あがらん」みんな、そう思っている。

どんな人も、「死んだら助かる」を変えられない。
マルクスが、この世を改革しようと考えた。
しかし、実際に革命起そうとした人は、みんな失敗した。
この世を何とかしようとした人は沢山いる。
しかし、やっぱりこの世はどうにもならん。
キムタクが工藤静香結婚
どうにもならん。

そういう全人類の迷いに、親鸞聖人が
「今腹痛で苦しんでいる人に、死んだら助けるという医者があるでしょうか」
「今溺れて苦しんでいる人に、土左衛門になったら助けるという人があるでしょうか」
「ましてや仏様です。死んだら助けるなどとお約束されるはずがありません」

しかし、善恵房は、その根拠を求めた。

「いくらあなたがもっともらしいことを言っても、
 経典にないことは仏教ではありません。
 お経 のどこに今救うと説かれていますか」

親鸞聖人は
「あります。

『若不生者不取正覚』
 若し生まれさせることができなければ、
 仏のさとりを捨てる
 と誓われているではありませんか」

それを聞いて善慧房どう思ったか。
頭下げたか?

高笑いした。
黄金バットみたいに。
親鸞殿、それこそ私の言うことの根拠じゃありませんか。
 死なねば生まれる事はできませんからね」

これだ。
それを聞いて隣の司会者が、
「なるほどその通りですね」
全然仏法分かってない。
参詣者も、みんな親鸞聖人に疑いのまなざしが。
「死なねば生まれられませんからね」
その通り、善慧房殿のおっしゃる通り。

「若不生者不取正覚」
100人が読んだら100人そう思う。
1000人が読んだら、1000人がそう思う。

やっぱりこの世はどうにもならん、ということじゃないか。
だから死んだら、助かるということだろう。
どの宗教でもそう。
創価学会は、くだらん現世のご利益。
幸福の科学
この世は修行の場。
修行して、死んだらステージがあがる。
同じだ。
キリスト教も一緒。
「死んだら神の国

ところが親鸞聖人「誤りはそこです。
あなたの誤りは、実にそこにあるのです」
これは善慧房にだけ言われたのではない。
全人類に向かっておしゃっている。

「死ぬとか生まれるとかは、肉体のことだけではありますまい」
実に微妙な表現。
大衆は全部善慧房の味方。
本当はズバリ、肉体のことではない、魂のことなんだ、と言われたい。
しかしあえてワンクッション置かれた。
「肉体は死ねば焼いて灰になるもの」
一つ一つコトっと納まる。
「肉体よりも、心を重んずるのが、仏法ではありませんか」
なるほど、そうか。

阿弥陀如来 は、私たちの暗い心を、明るい心に生まれさせると誓っておられるのです」
心を生まれさせる。
闇の心を信楽の心に生まれさせる。

「俺の心が暗い。なんだその暗い心とは」
「何のために生まれてきたのか。
 何のために生きているのか。
 なぜ、生きねばならぬのか。
 分からないでしょう。
 後生くらい心を抱えて、生きてはいませんか」

なるほど、それが暗い心か。
確かに何のために生きるか分からん。
これが暗い心か。

そこで聞いていたばあちゃんが、
「なるほど、そうじゃな」
ばあちゃんいい役している。
脇役も脇役の大切なところがある。

多分始めてみたときは、
「あああ、善慧房のアホ。何を言っておるんだ」
と思ったかもしれない。

この体失不体失往生の諍論を見て、
「馬鹿だなあ、証空は」と思っていないか。
そんな程度に、聞いてはならない。
逆にいえば、なぜ、日々法然上人のご説法を聞きながら、
しかも優秀な善慧房は、なぜ聞き違えたのか。

浄土真宗の教えは深いので、一回聞いてすーっと分かる人はいません。
何回も聞いてもらいたい。

阿弥陀如来から頂く慈悲とは

考えてみると人間と言うのは、
娑婆で泣いたり笑ったり、喜んだり悲しんだり、
喜怒哀楽を繰り返して一生を終えていく。

どんな金持ちも、地位も名誉も財産もおいて死んでいく。
全て娑婆の中のでき事。
自民党が分裂、所詮は自民党の中のでき事。
アメリカ大統領がブッシュかゴアか。
所詮はアメリカの中のこと。
人間の世界は、苦しいことわずらわしいこといっぱいある。
娑婆の中のできごと。

朝のニュースとか見ていると、本当に娑婆だと思う。
誰と誰が別れる、結婚 する。
所詮は娑婆の中のでき事。
自分の幸せと関係あるか。
全くない。

毎朝、娘と一緒に朝ご飯を食べる。
ニュースを見るけれども、子供に見せたくなるようなニュースはない。

世のなか、どちらを見てもみんな苦しんでいるんだな、と思う。
みんな、この世はどうにもならない、どうしようもない。
どうせ人間みんな苦しんで死んでいくんだ。
有楽町のそごうがビックカメラになる。
ダイエーの創業者もとうとう負債総額一兆円以上。
経営陣から外されてしまった。
世の中、栄枯盛衰、いつまでも盛んなものはない。
みんな苦しんで死んでいく。

そんな苦しみ悩んでいる人々に、この世ではっきり心の闇が破れる。
無量光明土にいたる、大般涅槃を証す、往相回向を明らかにする。
そして、またすぐ衆生済度のタメに娑婆にもどってくる。

さっき、還相回向のことを普賢の徳といった。
普賢菩薩とは釈尊の脇士。
もう一方は文殊菩薩
阿弥陀如来 の脇士は、観音菩薩勢至菩薩
普賢の徳とは、慈悲を表す普賢菩薩の徳。
その慈悲の心によって衆生済度せずにおれなくなる。
そのことが阿弥陀如来の本願にもちかわれている。

普賢の徳を修習せん。大無量寿経還相回向の願」)

娑婆に戻ってくる、それは仏の慈悲の心による。
苦しんでいる人をほっておけない。
世の中、年配の人が荷物持っていてもなんとも思わない。
慈悲のカケラもない雰囲気。
慈悲の心とは困っている人を助けずにおれない、そういう心。

仏様が、「オレは幸せになれて良かった。娑婆は大変だな」
そうのんびりしておられれるはずがない。
すぐさま、慈悲の働きによって衆生済度せずにおれなくなる。
そういう働きもまた、阿弥陀如来から頂くもの。

疑情と煩悩の違い

正しい信心を獲たら心がどう変わるか、

ということを
あなたはっきり知っておいて頂かなくてはならない。

なくなるのは疑情です。
怒り愚痴煩悩はなくなりません。


疑情がなくなって明るい心になったことを、
本願文ではどう仰っていますか?
信楽の「信」。

「信」とは、闇が破れたこと。
これを「破闇」という。

信楽とは破闇満願。
満願とは、願いが満たされて、
この願いは私たちの願いではなくて弥陀の願い、
私たちを本当の幸せにしてやりたいという願い。
その願いが満たされたのが信楽の「楽」
ここでなくなるのが疑情、なくなるのは疑情ですよ。

なくならないのは煩悩、なくならないどころか減りもしない。
正信偈にはこうある。

已能雖破無明闇
貪愛瞋憎之雲霧
常覆真実信心天正信偈

すでに無明の闇を破すといえども、
貪愛瞋憎の雲霧は常に真実信心の天を覆えり。

すでに破れたといわれる無明の闇とは疑情のこと
常に真実信心の天を覆っている貪愛瞋憎とは、
貪愛は
瞋は怒り
は憎しみということで愚痴

煩悩を雲や霧に譬えておられる。

助かったかどうかは信疑決判、これは大事な言葉。
疑いが晴れたかどうかで決まる。

 

救われたらハッキリする。

世の中には、救われたかどうかハッキリしない人ばかり。

いつとはなしに救われたとか。

しかし、それが救われたといえるのか。

 

肩の糸くずを取る。
「分かったかな」
「分かりません」
糸くずが取られたくらいでは分からない。

しかし、担いでいた椅子を取る。
これは、あれだけ重いものを持っていたのだから
はっきりと分かる。

「あんた湯加減はどうやね?」
「いやあ、分からん」
自分が風呂に入っとって分からんということがあるか

「あの料理はどうだった?おいしかった?」
「うーん、分からん」
自分が食べた料理の味が分からないということがあるか

格通知をもらっても合格したということが分からん。
それはまだ合格していないということ。
合格すれば本人が一番はっきりする。

 

仏教では、救われたらハッキリする。

true-buddhism.com

 

他力の信心と自力の信心の違い

「弥陀の本願まことにおわしまさば釈尊の説教虚言なるべからず、
仏説まことにおわしまさば、善導の御釈虚言したもうべからず。
善導の恩釈まことならば、法然の仰せそらごとならんや。
法然の仰せまことならば、親鸞 が申す旨、またもってむなしかるべからず候か」

金力にたつ者は、金力を失った時に倒れる。
ダイエーの中内一家はダイエーから追放。
そごうの水島元会長も天皇だなんだと言われたが
もうおしまい。

権力にたつ者は、権力を失った時に倒れる。
会社の課長だ、部長だ、社長だと言っても
定年で会社を辞めると、もう誰も見向きもしない
それまではお歳暮なんかも沢山来ていたのに
今は道で会っても挨拶もされない。

ところが、絶対に崩れない人、揺るがない人とは他力の信心をえた人。

たとえ、釈尊、善導、法然さまが揺らごうとも、
心を弘誓の仏地に樹てば、永久に倒れぬ無碍人となる。


たとえお釈迦さまは架空の人だった、と言う人がいても
善導大師は実は詐欺師だった、
法然上人は実は隠し子が3人もあった、となっても。変わらない信心

「えー、それじゃあ仏教はうそじゃないか」
と、それで、ふらふらになるとするなら、
それは、釈尊法然上人、善導大師の上にたっているということ。
人の上にたった信心は自力の信心。

他力の信心を獲得しなければならない。

 

浄土真宗の親鸞聖人が本を書かれた目的

浄土真宗を開かれた親鸞 聖人の主著『教行信証』後序のお言葉
後序というのは後書きということ

「慶ばしきかな。心を弘誓の仏地に樹て、念を難思の法海に流す。
深く如来の矜哀を知りて、良に師教の恩厚を仰ぐ
慶喜いよいよ至り、至孝いよいよ重し
茲によりて真宗の詮を鈔し、浄土の要をひろう。
唯仏恩の深きことを念じて、人倫の嘲を恥じず。
若しこの書を見聞せん者は、信順を因と為し
疑謗を縁と為し、信楽を願力に彰し、妙果を安養に顕さん矣」

「慶ばしきかな」というお言葉で締めくくっておられる。
心が阿弥陀如来の本願という、絶対に崩れることのない仏の大地に立った。
そして念、心が大宇宙に流れていく。
喜びがいよいよこみ上げてくる。
こんな大きな喜びを親鸞、体験させて頂いたから、
この教行信証を書かせて頂いたのだ。
嘲る者もいるだろうけど、親鸞そんなことは眼中にない。

慶喜いよいよ至り」

世間で、喜びがいよいよ至ってくる、ということがあるかな?
あなたのこれまでの中でそういうことあったかな?
なかなか慶喜いよいよ至るということはないんだね。
だんだんと色あせたりしていく。
親鸞聖人の書かれた教行信証という本は
人生の目的を達成された喜びを私たちに書き残されて下されたものだから
教行信証の最初にも慶ばしきかなや、と始めておられる。

その本当の生きる目的が浄土真宗に教えられているのです。