仏教研究室

お釈迦さまってすごいですよね。一緒に仏教を学びませんか?

虚しさの心理学

虚しさの心理学の本を読んだことがあるでしょうか。
虚しさの心理学』というタイトルの本があります。

諸富さんという、著者の人が
「私はカウンセラーである。色々の人の悩みを聞いてきた。
 最近気になっていることがある。
 ハッキリとした悩みの形を取らない心の虚しさ寂しさ
 うち明ける学生が増えてきた」

こういうのがあります。

その文章を見ますとですねどう書いてあるかというと
「あぁ。虚しくてたまらないな人生は」、
と打ち明ける学生が多いとは全然書いていない。

どう書いているかというと
「人並みには幸せになれそうな気がしているけれどそれでもやっぱりどこか、虚しい。つまらない」
という書き方をしています。
「特に何かが足りないと言うわけではないんだけれど、だけどやっぱり何かが足りない物足りない。
しかしその何かが分からない」
という書き方をしています。

こういう表現をされるとほとんどが自分のことだと思います。
実際そうでしょ。
「飛び抜けて幸せとも思わないし飛び抜けて不幸とは思わないが何かが物足りない」
とかね。

曖昧模糊とした漠然とした人恋しさ虚しさを感じている人が多いという文章なんですよ。

キリスト教の運命と仏教の報いの違い

大切な運命ということについて
キリスト教では、この世界も、私達人間も、が創ったと言い、
私達の運命によって決められたと言われています。

だから、よい運命なら神様ありがとう、ゴッドブレスユー・の祝福です。
悪い運命ならオーマイガッ!
に祈れ、に拝めと言うのがキリスト教の教えです。

それに対して仏教では、運命を創って与えるなどいない、
私たちの行為が私達の運命を生み出す。

私達の運命は、私達の行為によって決まると教えられています。

これを仏教では自因自果、世間一般では自業自得くと言われています。
自因とは自分の原因、自分のまいた種ということで、
自分のやった行為ということです。カルマともいいます。

果とは結果で、受ける結果ということですから、運命ということです。
ですから自因自果というのは、
自分の行為が自分に運命をもたらすということです。

原因と結果の法則と同じで、因果応報なのです。

 

東大教授の語る日本の教育の欠落した点

そういえば、この間「IT革命のカラクリ」という本を読んでいたら、
東大の月尾教授、ジャーナリストの田原総一郎が対談してて、
それによると70代の平均貯蓄が、7000万なんだって。

田原さんは、70代と言ったら老後なんてもんじゃない。
人生の最終段階だから、いつ死ぬか分からない、
年金もあるし、医療費も只となったら、7000万なんてお金
必要無いじゃないかと言っています。

死んでいくときに紙切れ一枚持ってもっていけないのに、どうすんの。
7000万って何なんでしょう。
しかも、そのお金は、何の為に貯めたんですか、
と聞くと、ほとんどの人がその答えをもたないというのが実態のようなんですねー。

月尾教授は、この働くのは何の為か、働く意味は何か。
ためるのは何のためか目的わからずに、
何のために働いて、お金貯めるんですか、
この人の生きる意味は何なのかというのが、
1番大事な点なのに日本の教育の欠落した点だと言っています。

そこでIT革命で変わる日本にとって最も大事なのは
個人個人が生きる目的を明確にする事だと言っています。

受験参考書の中にもでてきません(デュオ、英頻、マドンナ古文)
大学の授業の中にも出てきません、大体生徒が出てきません。

それで、なるべく若いうちに生きる目的をはっきりさせることが大事ですね。
そこで、このブログでは、この生きる目的が何なのか
はっきり答えをだしちゃおうってことで書いているのです。

浄土真宗の異端の特徴が私たちの心に巣くう

浄土真宗の異端で、一対一で夜中に秘密の儀式で信心を授ける
秘事法門というものがあります。

その特徴として、大衆を教化しません。
多くの人に仏教の話をせず、伝えないということです。
自分の考えを分かってくれる人のみに話します。
それは、体験談を話しているからです。
だから聞いてくれない人には話をしない。

しかし仏教で話すのは「体験」ではなく「教え」です。
ですから
「十方にひとしく弘むべし」
と言われるんです。
「十方」とは「大衆」ということです。

よく
「私なんてとても話はできません」
と言う人ありますが、もしその人の信仰体験を語れというのなら、話せません。
しかし、自分の思いを話すのでなく、仏教の「教え」、浄土真宗の「教え」を語るのです。
「教え」は三世十方を貫きますので、誰が話しても誰に話しても真実です。
半年聞かせて頂いた人は半年分、話せます。

浄土真宗親鸞聖人は大衆に切り込んでいかれました。
「教え」においては三世十方を貫くわけですから、
自信をもって説かねばなりません。

聞いて分かるように、秘事法門の特徴は私達の心に巣食っている心です。
そういう心を叩いて、進ませて頂きましょう。

信心決定したら聞く必要はない?

人工信心は、頂いた後は、聞く気がなくなります。

信心決定するまでは、火の中かきわけても聞きたいとは思えません。
しかし信心決定したならば、火の中かきわけても聞きたくなるのです。
もっと聞きたい。

昔、三代市という妙好人
姑に反対されながらも仏法を聞き抜きました。
それからもへ聞きに行こうとする三代市に
姑がこういう歌を歌いました。

危ぶみのないならないで 参りとぼとぼせずに 家で働け

それへの返歌がこれです。

危ぶみのなき身にして下されたご恩思えば家におられず

親鸞聖人が法然上人との別れを悲しまれたのは、
上人からもう聞かせて頂けないことを悲しまれているんです。

また、流刑から京都へ戻られる時のお言葉も、
また上人からお聞かせ頂けるのだ、と言われています。
聞かせていただけるのが嬉しい。

親鸞 聖人のお歌にもあります。
「♪帰洛の旅の身の軽さ」
小躍りされるお姿がわかります。
また上人にお会いできる、聞かせて頂ける。
救われた後、聞きたい聞きたいの気持ちをもっておられたのです。

信心決定したなら、阿弥陀如来の本願が初事初事と聞こえます。
余計に聞きたくなります。
余計に心をかけずにおれなくなります。

 

仏教には秘密がある?

浄土真宗で三業帰命の異安心である秘事法門というものがあります。
その特徴としては、絶対に秘密を守れといいます。

 仏教の教えの中には秘密というものはありません。
日蓮宗では秘法というのがありますが、
そんな根拠のないこと言うな!」と言うと
法華経に根拠がある!」と言ってきます。
日蓮が縦横無尽に逆立ちして読んだら出てきたと言います。
根拠はありません。

弘法大師の開いた真言宗密教といっていますが、
如来の法に握拳なし」と言われます。
握拳」というのは、
夜中に自分の最愛の弟子に秘伝の教えを授けることをいいます。
ラーメンとかおでんならそういうのもいいんですが、
仏教ではそんなことはありません。

阿弥陀仏の本願は「絶対PR不足」です。
アガリクスだとか、手と足同時に動かして鍛えられる機械、
あれって、PRし過ぎです。
しかし阿弥陀如来 の本願については
需要はあって供給足らず」で、
伝える人のないことは悲しいことです。
ブッダが百千万劫かかって無理だったんですから。

布教に挺身されたブッダ親鸞聖人の生きざまをみれば、
そんな「秘密」なんてないことが分かると思います。

浄土真宗に秘密はありません。

法霖と鳳潭

江戸時代の浄土真宗では、能化制度がありました。

トップの学者が能化になり、絶大な権力を誇りました。

有名な学者ばかりですが、中でも法霖。
有名なエピソードあります。
朝帽子をかぶせておいたら夜までかぶって本を読んでいました。
真っ暗になるまで本を読んでいました。
私達なら、勉強しようと思っても、20分もすればすぐ漫画読んじゃうでしょ。
すごい集中力です。

また当時、浄土真宗日蓮宗はずっと法論が続いていまいた。
何度もあったんですが、それが終わりを迎えたのが、法霖の時代でした。

それだけでなく、華厳宗の鳳潭を破りました。
鳳潭といえば、教行信証をきちがいの書だと言って捨てた人です。
これまたスゴイ学者でした。
若い頃、仏教の講義を聞いていた時、
難しいので、だんだんと受講者が減っていきます。
そして鳳潭一人になりました。
教授はもうやめると言い出したけれど
「明日必ず満員にしてみせますから」と言いました。
翌日、本当に満堂になっているので驚いてよく見るとワラ人形ばかり。
教授に聞かれて、
「どうせ最初からワラ人形みたいなものですから」
と答えました。
それだけ、難しい講義だったのです。
またそれを分かっていた鳳潭のすごさというもの分かります。

その鳳潭を破った際、法霖の書いたものが『笑螂臀』でした。
『笑螂臀』を見ると、全部漢文で書かれています。

まあ所詮は日本人の書いた漢文ですが。