仏教研究室

お釈迦さまってすごいですよね。一緒に仏教を学びませんか?

IT革命で働く意味

昔は、一つの専門の知識や技術に秀でていれば良かったものです。
バブルの時、20世紀型の人間。
今でもIT関連企業だったら、その知識があれば入れます。
英語が堪能なら、その筋の会社へ。
早稲田政経学部4年、ほとんど学校へ行っていません。
みんなLEC、TACなどへ行っています。

一つのことに秀でている人、スペシャリストと呼ばれます。
深い知識、技術を備えている。
ところが、スペシャリストならよし、とはならない。
これだけじゃ困るぞ。
その専門的知識を生かすだけの、幅広い一般常識が必要。
その人間の幅、基礎、人間性ということにも関係します。
その知識をいかに生かせる人物か。
こういう人を、ジェネラリストと言います。

だから、スペシャリストかつジェネラリストと言う人を、
T字型人間と言う。
深い知識があるとともに、広い一般常識もある。

私は数学だけはできるぞ。
だけど靴下の穴の塞ぎ方はわかりません。
英語はわかります。
でも風呂の入り方はわかります。
極端だけど、学校の成績は良かったけど会ってみると人間味がない、
という人があります。

昔は、こういう専門知識だけあれば良かったのです。
I型人間。
しかし、今は、それだけでなく広い常識。
T型人間が求められます。

これがIT革命です(笑)。

知識を生かすだけの幅広い素養、これを知恵と言います。
どうしたら、英語の分からない人に、英語で伝えることができるでしょうか。
どうしたら、デジタル通信ができるでしょうか。
これは知識です。

じゃあ、その知識を何に役立てるか。
その知識や技術を駆使してなんのために生きるのか
それらの情報を生かして、より楽しく、快適に生きていって、
結局何をどうしたら幸せになれるのか。
何のために、知識や情報を発展させたりして働くのかという働く意味
そして存在意義は何か。
こんなことについては、まったく何の勉強もしておらず、
学習が欠如しています。
こういうことがよく言われています。

浄土真宗の覚如上人の著作2つ

浄土真宗の3代目、覚如上人に改邪鈔という本があります。
これはまさに破邪顕正の本です。
邪を改めるとあるように。
間違ったものを改めなければ本当の幸福になれません。

邪を破らずして顕正はできません。
邪を持ったままでは絶対に後生の一大事の解決はできないので
厳しく破邪されたのが覚如上人です。

非常に厳しいものでした。
破邪はすさまじいものでした。

そして口伝鈔という本もあります。
これは、親鸞聖人から聞かせていただいたことをそのまま書き表されたものです。

21カ条あります。
正確には親鸞 聖人から如信上人、如信上人から覚如上人。
面授口決といわれるようにそのまま伝えられた。

如信上人は善鸞の子供。
親鸞聖人は善鸞を関東に送られましたが、
如信上人は親鸞聖人のもとで説法を聞いておられました。

覚如上人はその如信上人から教えを聞かれます。
実際は覚如上人は親鸞聖人の曾孫さんで、直接の面識はないですが、
しかし面授口決といわれるのは如信上人から聞かれて正確に伝えられました。
実際読んでみると分かるけど親鸞聖人の仰有ったその通り書かれています。

浄土真宗の素晴らしい教えの内容がおさまっています。

小乗仏教と大乗仏教の違い

大乗仏教と小乗仏教とはどういうことか。
どこが違うか。


小乗仏教—ききあやまって伝えられた仏教。—我利我利の教え
大乗仏教—正しく伝えられた仏教。−自利利他の教え

これは非常に大切なところです。
ここは非常に聞き誤りやすいところです。
小乗仏教に迷った人は頭馬鹿だからではない。
間違いやすいからです。

真実の仏教は自利利他であるにも関わらず、
あなたも聞き誤ってしまう可能性は非常に高いです。

ここは非常に間違いやすいところです。
なぜなら私たちの本性が我利我利だからです。
自利利他を聞かされても都合の良いようにしか聞けないのです。

正しく聞いたつもりでも時間がたつと分からなくなります。
こうだときいて分かったと思っても時間がたつと分からなくなります。
頭が悪いのではなく、自力とはそういうものです。
だから常に聞かせていただかないと危ない自分だと知ってもらいたいところです。

大乗仏教小乗仏教の違いはいくつもあります。
いくつもありますが、端的な違いはこれなんです。
まさに極楽行きか地獄行きかになる。

小乗仏教の生活をしていたら
算用があって銭たらん
となります。
これが小乗仏教、我利我利亡者の考え方です。

算用があって銭たらん。算用とは計算です。
我利我利亡者のものはこうやったら金が儲かると
自分に引き寄せようとするからです。

計算は合うが計算にあったお金が来ない。
我利我利亡者はもう幸せになれません。

反対にお湯なら前にやりなさい。
周り回って自分に来るように利他に徹したら
利他のままが自利、自利のままが利他になります。

これを銭が余って算用があわんとなります。
計算以上のお金が入ってきます。
計算が合わなくなります。

りんごでも5つあったのを2つ上げれば7つになります。
サイフに10万あるなら全部出しなさい、20万になります。

布施の功徳のすごさは何倍何十倍となって帰ってきます。
私なら何百倍となって返ってきています。

必ず物やお金に恵まれます。
仏教を命がけで伝えて損をすることはありません。
物やお金にも恵まれてきます。

仏教のためにお金を使うと、何十倍となって帰ってきます。
計算以上のものが、返ってきますから銭が余ります。

ぜひ自利利他を実践して貰いたい。
ところがわれわれはそんなことがあるかいと疑ったり、
また我利我利だから損をするように思います。

菩薩道と言ったら自利利他の道を進む人です。
聴聞 の自利と破邪顕正の利他。
ぜひ実践して貰いたいですね。

如来とは

仏のさとりをえた人を如来とも言います。

阿弥陀如来とか大日如来とか薬師如来など、

たくさんの如来といわれる方があります。


では如来とはどんな意味かというと、
真如より来現した人という意味です。

如来も仏も同じ意味です。
真如より来現した人。
これが如来

真如とは仏教では真理のことを言います。
大宇宙の真理を悟られた方が仏様。
大宇宙の真理を発見された方が仏様です。

これが如来という意味。
真実を体得された方が如来です。

仏のさとりを開く難しさ

さとりといってもピンからキリまであります。
軍人といっても二等兵から大将元帥とあるように。
相撲の世界でもそうです。
ふんどしかつぎから横綱まで。

相撲ならば割と分かりやすいのは、
相撲は上がれば上がるほど段々登るのが大変なんです。
最後は大関から横綱
一番大変です。

同じようにさとりでも上に上がるほど時間がかかります。
難しくなります。
仏教では0段の私たちが仏のさとりを開くまで
三大阿僧祇劫かかるといわれています。

52段あるというのは華厳経にあります。
他にもありますよ。
いくつかのお経にあることをまとめるなら52段あります。
諸経典の説相を総合すれば52段あることが分かります。

沢山のお経の説きぶり、
総合したならば52あることが分かります。
勝手に言っているのではありません。
大宇宙の真理としてあります。

厳然として宇宙の真理としてこういう境涯があると説かれています。
また素晴らしい善果を得るには原因が必要です。
その原因をつくる位が菩薩であり、
ここまで登るために沢山の、時間必要となるんですね。

その期間が三大阿僧祇劫とあります。
普段聞き慣れない言葉ですが、
一劫とは四億三千二百万年。
阿僧祇とは億兆よりも数十桁高い、桁をいいますね。

だから想像もできないほどの長さ。
それが三大阿僧祇劫。
0段から41段までを第一大阿僧祇劫という。
41段から48段までが二大阿僧祇劫。
そしてそのあと、52段までが三大阿僧祇劫。
仏になるにはこれだけの大変な時間がかかる。
だからこれを聞いたら絶望的に思いますが。
凡夫が仏になるのは不可能に近い。

その泥凡夫が正定聚の身にさせていただける弥陀の本願を伝えることを
ブッダは本懐とされています。
いかに弥陀の本願が素晴らしいかということです。

ブッダの結婚

ブッダ結婚 は19歳でした。
妻の名前はヤショダラ姫です。
このヤショダラ姫は大変綺麗な女性ですが、
そんな女性と結婚 できても幸せになれませんでした。

私たちもそうです。
どんな人と結婚 できても心から安心は絶対にできませんよ。
五体満足の子供が産まれたら幸せではないかと思われていますが、
五体満足の子供が産まれても、
ブッダ御自身の子供さんにラゴラと名前を付けておられます。
ラゴラとは、束縛者という意味です。

つまりブッダ、御子様がお生まれになられましたと聞けば普通喜びます。
でもブッダは子供が産まれることによって
自分の自由が束縛されてしまうと思われました。

あなたのご両親もそうです。
自由が束縛されます。
自分の自由を束縛されます。
だから子供は本当に大変です。
私の自由を束縛するもの。
私も子供にこの名前をつけようとしたんですけど、
前代未聞だと猛反対を受けました。
結局子供から、恨まれるから避けました。

いくら結婚 できて子供に恵まれても
本当の幸せにはなれないのだと
ご自身の体験から教えられています。

どう生きるとなぜ生きるの関係

どう生きるとなぜ生きるの関係」は誤解が多いです。
阿弥陀如来の本願でいえば、
なぜ生きるが18願
どう生きるが19願にあたります。
なぜ生きるという生きる目的がなくては、
どう生きるという生きる手段、生き方は意味をなさなくなってしまいます。
『なぜ生きる』がなくてはならない、大前提です。

目的が分かったら、そこに向かっていくために、
『どう生きる』が大事になります。

真実と方便の関係です。
18願と19、20願の関係です。
どっちも大事です。
18願が大事だから19、20願が絶対に大事。
要門です。

どう生きるを疎かにするのは、仏教の教えを曲げることになります。
どっちかだけでいい
「お金ありませんから仏教講座に行けません」
とか当たり前です。

そういう非常識によって、信頼関係を失ってご縁を失う。
本当に残念です。

子供はいれば、親は面倒を見ざるを得ない。
それが自利利他です。
よく分からない時に、じいちゃん、ばあちゃんがいます。
親は子育てにこまったら、経験しているじいちゃんばあちゃん、
近所の友達に聞けばいいのです。
それが、自分の判断で子供を殺してしまいます。

初期からずっと言えることで、不安を与えないことです。
掃除もします。

本当はどうあるべきか、正常な感覚を磨きましょう。
それを仏教が初めての人に示すのが大事です。