仏教研究室

お釈迦さまってすごいですよね。一緒に仏教を学びませんか?

汝自身を知れ

汝自身を知れ

ギリシアのデルファイの神殿の第一の扉に、
汝自身を知れ」という不朽の名言が今も刻まれている。


誰か哲学者の言葉ですが、ソクラテスの言葉ともいわれます。

とすると、ギリシア哲学は、2000年以上前の古代哲学ですから、
それ以来ずっと言われ続け、今日まで有名な言葉として残っているのが、
汝自身を知れ」ということです。

そのことからも、いかに自分自身を知ることが難しいかがわかります。

これだけ科学 が発展しても、心理学が発展しても、
自分自身を知ることは容易ではないのです。

それというのも、自惚れがあるからです。

自惚れとは自分を悪いものとは思えず、よいものと思ってしまう心です。

この自惚れの色眼鏡が邪魔して、ありのままの自分の姿が見られないのです。

ではどうすれば、真実の自分の姿がわかるのかというと、
法鏡を使う必要があります。

法鏡とは真実の鏡ということで、
自分のありのままの心を映し出す鏡のことです。

その法鏡というのは、仏教のことです。

ですから仏教を聞くと、今まで知らなかった自分の姿が知らされて来ます。

 

17歳の暴力事件の原因

以前、渋谷で、バットで行き交う人を殴ったという事件がありました。
次から次へと来た人を片っ端からぶん殴ります。
ひどいやつだなと思います。
17歳の犯罪でした。

バットで叩いた少年は
「気分がむしゃくしゃしていた。
お父さんに叱られたから。父親に対する腹いせだ」
といいます。

どうしてこの子がそんなことをやりはじめるようになったのかというと、
直前まで家でお父さんとお母さんが大声でケンカをしていました。

本当はもっと尊敬して、立派でいて欲しいはずの父親や、
もっと穏やかで優しくあってほしい母親が、
金切り声や怒鳴り声をあげて、
家の中できゃーきゃーとやっています。

そんな中にいる子供はたまったものではありません。
ある大学生が、夜目を覚ますと襖の向こうで、
お父さんとお母さんがケンカをしていて、
怖くて外に出れなくて「やめてくれ」と叫びました。

子供にとって、居場所がなくなります。
心の傷を掘ることになります。
バットの少年も
「やめてくれ」
と叫んだら、
「おまえはすっこんでろ。子供は黙ってろ」
といわれます。

子供としてはこれ以上こらえきれなくなって、
「やめてくれ」と言ったのに、
そのようにいわれて、キレて、事件を起こしました。

こういうことからしても、
2人の夫婦は事実上離婚していたのも同然かもしれません。
心と心が通い合っていませんでした。

結婚 するときも、この人と一緒になったら幸せになれるはずだ、
幸せをつかめるはずだと思って結婚 した。
しかし今では、おまえがいるからむしゃくしゃするんだ、
あなたの暴力のために苦しむのよとなっています。

幸せを求めながらも幸せになれず、
結婚 することで幸せをつかも
うとおもってやったはずなのに、
その実態は相手を煩わせ悩ませる煩悩の種となってしまっています。

そういう人が少ないのならいいが、4組に1組が離婚していますし、
家庭内離婚も含めれば数え切れない数にのぼります。

なぜ幸せになれないのでしょうか。

その深い原因、苦しみの元は、仏教に教えられています。

 

仏教の教えを明らかにする虚しさ

最近、生きてることにつかれてる、くたびれたので、
いやされたいっていう人が結構多いんですよね。


以前、『虚しさの心理学』って本があって、
この本の作者は筑波大学で教授してい
る諸富さんって人が書いている。
その本で諸富さんは
何となく虚しいということを書いています。


だから、みんな本当は安心したい、満足したいと思っているけど、
絵に書い餅のようにはならなくて、
そこからいやされたいって思うみたいなんだね。

いやしっていうのは、くたびれてるっていうこと。

みんなくたびれて、疲れているから、
誰か僕を安心させて、気持ちよくされたいっていうのがいやされるってこと。
だから世の中につかれている人が多いから、
いやしってのが流行っているんだね。

これは仏教の教えを表現するっていうときに、
相手が共感できる
相手の固有振動数に合わせて話をすると、
虚しいとか、虚無感とかになってきます。

それを根本解決する方法が仏教に教えられています。

 

自殺した知り合いの遺書

知り合いで自殺した人がいます。

遺書に、
「僕も幸せになりたかった」
一行だけ書かれていました。

彼も幸せを求めていた。

なのに幸せになれなかった。
毎日が苦しかった。
だから死んだら楽になれると思って自殺した。

だからみんな幸せを求めているってことじゃないかな。

幸せって言っても、幸せってなんだそれとなります。

幸せっていうの分かってるだろ、お前、っていうのは乱暴ですから、
幸せの解説が必要です。

仏教が初めての人に、
「今まで生きてきた中で、一番嬉しかったこと何?」
と聞いたら、
「中日が巨人に勝った。2対1で」

といっていた。

なるほど、普通の人が思い浮かべる幸せは、
名古屋ドームとか東京ドームなんですね。

スポーツ観戦は、終わったら盛り上がりが薄れていきます。
色あせる幸せです。

ところが仏教で教えられる幸せは、
摂取不捨の利益、信楽獲得。
絶対変わらない幸せです。

大分違っています。

 

幸せと聞くと宗教かと思う?

人生の目的を幸せ、と言うと発生する問題があります。

幸福、と言われて反発を持つ人は、
たいてい幸福と聞くと、宗教を思い浮かべます。

その宗教はどんなものかというと、二束三文的な御利益宗教をイメージしています。
例えば法の華三法行。
渋谷にたくさん建物があります。
福永がつかまってもたくさん信じている人がまだいます。
そういう御利益宗教などです。

仏教はそんなものとまったく違いますので、誤解を与えてしまいます。

また、その人も、ご利益宗教とは関係ないでしょう。

まず、人生の目的がどんなものか、
いかに必要不可欠なものか、
自分の問題として受け止めてもらう必要があります。

その人が必要としている、
何のために生まれてきたのか、
なんのために生きるのか
変なご利益宗教にはない、
その答えが仏教にある、ということです。

あなたが居場所がないと思う所のアンケート結果

私たちも体の居場所はみんなもっているんだよね。
私は3年A組です。
席は、前から5番目。
窓側から3列目っていう感じで。
大学生なら、下宿生ならかえる下宿もあるし、夜中に休む布団だってちゃんとある。
社会人なら、会社もあるし、自分のかえる家もあるし、
部屋だってちゃんとあるって言う人もいる。
地下室を持っているって言う人もいるくらいだいから。

でも、心の居場所がないんだってね。
だから、さみしい思いをして不自由しているってことなんだよ。

そういえば、この前ノンノていう女の子の読んでいる雑誌読んだら、
そこには居場所がないっていうことで特集がくまれてたの。

以前、浜崎あゆみの歌が特に若い人に人気があって、
どうして浜崎あゆみの歌詞が好きなんですかって聞いてみると、
歌詞に共感できるって言う人が多いんだって。
じゃあどんな歌詞があるのかなってみると、
ラクタ、居場所がなかったっていうふうに歌っている。

みんな、自分のことをがらくたっておもったり、
居場所がないって感じることが多いみたいだね。
ということで、このノンノでも読者の人に、
あなたが居場所が無いと思う所はどんなところですかっ
ていうアンケートをとってたんだね。

そしたら、なんと1位が友人、2位が学校、3位が家族、4位が恋人なんだって。
なんともいえない結果だよね。
普通自分一人だと孤独寂しくって、
話相手が欲しいと思ったり、
相談相手がいたら言いなって思って友人を求めるんだよね。
でもその友人が、居場所がないと思う第一位なんだって。

心の拠り所なんて仏教に教えられているのにね。

普通の日常に満足できない人

試験がきた時に、何らかの形で
友達の足を引っ張りたくなる気持ちが起きてきますよね。

自分の成績をあげることに頭がいっぱいになって、
友達から、
「あなた勉強してるの?」ってきかれて、
ごめんごめん全然してないんだ」って答えて、
実は、密かにやってたりします。

勉強なんかするなっていいながら、自分はちゃっかりやってたりします。

大学の授業でも、つまんない授業だと、普段は出席しません。
だけど、直前になると、まじめにでてた友達から、
そのときだけ親友のふりをして、
ノートをコピーさせてもらいます。
こんなことって結構あるんですよね。

進級する為には仕方ないとはいいながら、
「あなたそれで本当にいいの?」
っていわれると、あんまり気持ちのいい感じもしません。

じゃあまじめに勉強すればいいかっていうと、
くだらない授業に無駄な時間を、使っちゃうのももったいない。
五月病になってしまいます。

じゃあどうすればいいのかっていってもわかんなくって、
仕方がないっていいながら、
ながされちゃってるのが、実態なんじゃないですかね。

それでモラトリアムになる。

みんな、今の状態に、満足できていないっていう人が多いんですよね。
でもどうすればいいかはわからない。

本当は明るくって、楽しくって、充実した日々を
送りたいっておもってるのに、満足できず、不安なまま、日々が流れていきます。
どうしてだろう。

何を、どうかえれば、本当に生きてきてよかったっていう人生になるんだろう。
これってみんなが知りたいことなんだよね。

じゃあ何をどうかえればいいのか。
っていうことが仏教に教えられています。