仏教研究室

お釈迦さまってすごいですよね。一緒に仏教を学びませんか?

なんで死ぬのが怖いのか−スピリチュアル・ペイン

何で死ぬのが怖いのかというと、多くの人は肉体的な苦痛が嫌だからだと思います。

例えばガンの末期はものすごく苦痛です。
皮膚癌なら全身がかゆくなります。
皮膚の裏側がかゆくなるのでかけません。
気が狂いそうになります。
そしてそれが痛みに変わってしまいます。
痛みを弱めるためにモルヒネを打ちます。
頭をおかしくなります。
ガンにはなりたくないと思います。
肉体がきつい。

しかし、死の恐怖は、肉体的苦痛より、精神的苦痛が強いんです。
ガンによって死んでいかなければならないということがどれだけ辛いか。
痛みを感じる度に、「おまえは死ぬんだぞ、ガンなんだぞ」
と常に言われ続けているようなものなんです。

それで自分の人生は一体何だったのだろうという生きる意味についての苦しみが起きてきます。これがスピリチュアルペインです。そして、生きる意味がわからないのと同時に、死んだらどうなるかわからないという苦しみも起きてきます。

肉体の苦しみは、モルヒネなど、医学で対応できますが、スピリチュアル・ペインは医学でもお手上げです。

その医学も解決できない生きる意味を明らかにするのが仏教です。


スピリチュアルペイン・臨終に起きる心の痛みとその理由

 

アメリカ留学で英語ができても話すことがない

学生時代、よくアメリカに留学する人があります。

ところが留学生は、せっかくアメリカに行っても、なかなか話をしていません。
なぜかというと話す事がないからです。

人種の壁、言葉の壁を乗り越えてまで話をすることなんてそうはないんです。
話すことがあるとすれば自慢と悪口です。

それ以外では、仏教くらいしかないでしょう。
マイクだって、それを使ってまで話す事なんて普通はありません。
しかし仏法を知らされたこそ有効利用できます。

語学だって一緒です。
大事な事はその語学を使って何を伝えるか。
それが大事です。

医者、毎日同じ事ばかりやっていると、飽きるんじゃないか。
患者にとっては大事な問題なんだけど、医者は大勢のうちの一人です。
だから魔がさすということはあるんじゃないかと思われます。

生命の尊厳がはっきりして初めてその命を扱う事ができるんですよ。
生命の尊厳を知るには、生きる目的
そして生きる意味を知らなければなりません。

その本当の生きる意味が仏教に教えられているのです。

 

画家とアトリエの話

ある金持ちが、すばらしい絵を描きたいと思って、
お金に物を言わせてアトリエを作り、
すばらしい画材をたくさん手に入れました。

そして、アトリエにこもって、絵を描き続け、
やがて、アトリエから出てきて、
個展を開きました。

物珍しいので人が集まってきて見てみると、
子供のお絵かきのような、
とんでもない絵ばかりでした。

画材よりも、絵を描く腕のほうが大事なのに、
金持ちって本当に愚かですね、
という話もできますが、
私たちも同じことをしてはいないでしょうか?

これだけ科学 が進歩しても、
幸せだという人がほとんどありません。
自殺率は減ったかというとまだまだ沢山の人が自殺していきます。

色々な病気や事故で苦しんでいる人ばかりです。それは生きる意味が分からないということです。

なぜ科学 が進歩して、お金もあって物があふれても苦しみがなくならないのかというと、どんなにお金や物があっても、それを喜べる心が大切だということです。

それには本当の生きる意味を知らなければ、苦しみはなくなりません。
それが教えられているのが仏教なのです。

 

人質が解放されて助かった?

人質がとられて犯人グループと機動隊が戦闘になりました。

犯人グループの要求を飲まないと、人質が殺されます。
日本では、違法でも、人命は地球よりも重いということで、
超法規的措置がとられ、犯人グループの要求をのむことがあります。

しかし、海外では要求は飲まず、突撃します。

日本でも、その微妙なラインを見極めて、犯人の要求を飲むと見せかけて突入しようとします。

もし失敗したら、人質が殺されます。

そのとき、うまく犯人グループを欺いて、人質を助けることができました。

機動隊によって「助かった」といいます。

 

ではその人質だった人は死ななくなったのかというと、
何か別のことで、やがて必ず死にます。

助かったといっても、一時的に死ななかっただけで、最後は必ず死ぬのです。
100%死ぬことからいうと、助かったとは言えません。

死ぬのが伸びたということです。

どんな生き方をしても、必ず死にます。

そんな必ず死ぬ人生であることをまず自覚しないと、
生まれてから死ぬまでに何をすべきなのか
という生きる意味を考えようという気持ちが起きません。

また生きる意味を教えられた仏教を聞こうという聞法心も起きないのです。

まず、必ず死ぬという人生のありのままの姿を見つめることが重要です。

 

パスカルあと1週間の命。

パスカルは、あと一週間の命になったら何をしますか?
それでもなさねばならぬことを一生かけてでもやるべきだと言っています。

後一週間の命になったらどうする?
どうしたら生きる意味があったといえるでしょうか?

ほとんどの人は、今までやる事ができなかったものをやりまくります。
今まで使わなかった貯金を全部おろす。
おろすものがない人はサラ金から借りる。
一度京都で遊びたかった。
そして祇園にいって芸者遊び。
そしてドンチャン騒ぎで2日すぎた。
二日酔いで水曜日。
ああ、やってよかった、と思えるか。
もう三日目か、そんなんでよかったといえるか。
言えるはずがないんです。
もう日曜日になったらどうなってしまうだろう。
大体遊ぼうと思っても遊べないですよ。

アドラー心理学を駆使して、2週間後にデートしましょう、と誘われても、
もう生きていないんだと思ったら、
何だ、自分は生きてはいないんだ、となってしまいます。

勉強してももう意味がありません。

買い物に行っても、服はもうみんな春物ばかりで、どう感じるか。
私にはどうせ春はないんだ、となるのです。

元気で生きているときは喜べるものでも、
あと1週間の命と余命宣告を受けると、
実際には何も喜べません。

そんなときでも、人間に生まれてよかったと喜べるものが、本当の生きる目的であり、それを果たすのが本当の生きる意味です。

 

愛人依存症

愛人依存症なんてモノもあります。
愛人がいないと生きていけません。

何かに依存しないと生きていけないという人増加しています。
食べていかないと不安がつのってどうしようもなくなります。
だから食べてしまいます。

新興宗教に走るというのもそうです。

意味不明な儀式・摩訶不思議な呪文とはいって、
虚しくて寂しくて、頼りたくて仕方がない。

自分を認めてもらいたい。
なんとか藁にすがりたい。
そういうような気持ちです。

それほど人生は苦しい

そこで依存症が増えています。
そんな人たちに本当の生きる目的を教えなければなりません。
それを教えられるのは仏教を知らされた人です。

オウムの泥水を飲むなと言っても飲んでしまう。
すみやかに清らかな清水を徹底提供するのが急務です。清らかな水とは本当の生きる意味です。

本当の生きる意味を明らかにしなければならない。

仏教講座に嫌いな人がいたら?

仏教講座にはたくさんの人が来ているので、
他の人とあうことになります。

ところが私の知った人に、嫌いな人と
「同じ空間に居たくない」
という人がいます。

何でかと聞いてみたら、
「嫌いな人の吐いた空気吸いたくない」
と言っていました。

その嫌いな人は、仏縁深い人で、毎回仏教講座に来ているので、
嫌いな人の吐いた空気を吸いたくないから
嫌いな人と同じ空間にいられないとなると、
その人が仏教講座に来れなくなります。

そんな場合は、どうしたらいいでしょうか。

そういう好き嫌いというものは、その人の業です。

自分のわからない苦しみを抱えている人は自分では受け取れない。

君たちはどう生きるか』という本がベストセラーになっていましたが、
たとえその問題に対処はできても、
誰でも仏法を求めるのに何かしら障りがあります。
そんな色々の問題が起きてくるときに、そこを
「それでも仏法を聞かねばならない」
と越えていくものです。

対処ばかりしていても、
もぐらたたきのモグラのようなものできりがない。

死ぬまで求道です。
対処しきることはできません。

そうなると、それでも仏教は聞かなければならないもっと重要な生きる意味が教えられているということをよく理解しなければなりません。