仏教研究室

お釈迦さまってすごいですよね。一緒に仏教を学びませんか?

救われても極楽に往きたくない

極楽はありとは聞けど片便り
冷飯くうても娑婆におりたい

これはどう言うことか。
今信心決定していない人は、いくら極楽浄土があると
聞かされても信じられない。
信心決定する前は極楽浄土がいくらありと聞かされていてもハッキリ分からない。
救われたものからすればこんなハッキリしたことはない。
しかし救われていないものは信じられない。
本心はどうか。
仏法聞けばこの世から大安心大満足。
ということは分かっているが本心は極楽生きたいとおもいません。
ずっと娑婆におりたい。
これが私たちの本心。
死にたくない、この心は変わらない。
私たち年取ったらあのおじいちゃんおばあちゃん
あんだけ生きたのだからいつ死んでも良いのではないかと思っていた。
しかし、そんなことは絶対思えない。
たとえ90、100になっても死にたくない、これは絶対変わらない。
本心は冷飯くうても娑婆におりたい。
もう死にたくない。
また信心決定してもこれは変わらない。
信心決定したら極楽あることがハッキリする。
たとえここにブログがなくても極楽はある。
地獄はある。


ならば極楽浄土がハッキリしたら早くいったほうが幸せではないかと思うが、
しかし娑婆におりたい。
何時死んでも極楽浄土間違いなしでもこの娑婆におりたい。
この冷たい飯を食っても娑婆におりたい。
地獄落ちない嫌々でも極楽にいける
が、本心煩悩は変わらないから煩悩具足の私たちは冷飯くうても娑婆におりたい。
救われたら極楽ははっきりします。
また救われる前も救われた後も本心は変わらない。
煩悩ですから。