仏教で、邪慢という自惚れ心が教えられています。
邪慢とは、自惚れる価値のないものを自惚れることです。
よこしまな、自惚れる価値のないものを自惚れることです。
自慢できることではないことを自惚れることがあります。
自惚れる価値のないものを自惚れます。
一般的な考えを言えば、みんな自分は悪人だと自覚していると
私たちは思いがちですがそうではないんです。
悪人とは思っていないんです。
殺人者は自分が残酷な殺人をしたことを自惚れているんです。
こんな会話があるそうです。
新しく入ってきた囚人に対して、お前何人殺した、1人です。
お前一人か、私は3人殺したんだと自慢するそうです。
また、泥棒ならばね、自分の機敏さ、盗むのが上手なのを自惚れるし、
淫売婦、プレイボーイ、プレイガールは自分の自堕落、
自分は沢山の人と不倫しているんだと、
こういう会話をしている人が若者にもありますね。
私はこれだけ、ナンパした、ひっかけたと。
恥ずかしいことなのに恥ずかしいと思わない。
試験でもそうでしょ。
私は30点だぞ、何を言うか私は10点だぞ。
何を、私は0点だぞ、なかなかこんな点数とれんぞ。
自慢できることではないのに。
おれは団子だという馬鹿な学生がある。
自慢できることは何でも自慢します。
「私は一週間風呂に入っていないんだぞ」と自惚れる人もいます。
みんな迷惑かけていることに全然気付いていません。
この自惚れ心があるために自分の姿がなかなか判らないんですね。
仏教の法鏡に照らされなければ、本当の姿はもうわからないということ。
実にありのままの私たちのすがたを表現されています。
これがブッダの説かれた仏教です。
このように詳しく私たちの姿について教えて下さっています。