仏教研究室

お釈迦さまってすごいですよね。一緒に仏教を学びませんか?

お正月の歌

もうすぐお正月が近付いて参りましたが、
お正月にぴったりの歌があります。

 

元旦やおめでたいとは金剛の
信を獲たる人にこそあれ

 

お正月になると、猫も杓子もおめでとうと言っていますが
本当におめでたいのでしょうか。
めでたいのは金剛の信を獲た人こそ
おめでとうというと言えます。

金剛の信心を獲ていない人は、何がおめでたいのか、
一日一日地獄にどんどん近付いているのに。
年が明けたということは、地獄へ大きく近づいた
ということです。
それでおめでとうと言えるのでしょうか。

ところが金剛の信心を得た人は、一日生きれば一日生きただけ、
極楽極楽へと近づいていますから、
そういう一年大きく極楽へ近づいた人にこそ、
心からおめでとうと言えます。

私たち、年末も年始もなく、寝ても覚めても
本当の生きる意味を確認をしていかなければなりません。

 

meaning.main.jp

吉崎の嫁おどし

約500年前、浄土真宗の中興・蓮如上人の時代の、
吉崎の嫁おどしの話は、
あなたのお爺さんお婆さんならほとんどの人が知っている話です。


蓮如上人が福井県の吉崎におられた頃、
その蓮如上人の教えを熱心に聞いていた奥さんがいました。
ところが姑が大の仏教嫌い。
奥さんが欠かさず聴聞 に行くから、にくらしくなって聞法の邪魔をします。
いじわるで、今日中に米をウスをひいて一升の米を、粉にせよ。
聞法できないように仕事を与えていきます。
しかしこの奥さんは何としても聴聞したいという気持ちがあるので、
しっかりこなして、仏教講座には欠かさず参詣して聴聞しました。

どんなに仕事が忙しくても聴聞だけは欠かしてはなりません。
姑は邪魔してきたんだけど与惣次の妻は聞きたいという気持ちが強かったため、
人の二倍三倍の仕事をこなして、聴聞を欠かしませんでした。

聞法心が強く、やがて絶対の幸福を喜ぶ身になりました。

こういう歌を作ることができました。
あなたもどんなことがあっても聴聞を欠かしてはなりません。
この与惣次の妻を見習わなければなりません。
どんなことをしても参詣するので姑は憎たらしくなって、
嫁の聞法の帰り道に待ち伏せて、般若の面を被って脅そうとした。
その奥さんが夜道一人通るところ、わっと脅した。
わっと出てきて
『こりゃ、よめご!』
と言ったところ、さぞ、びっくりする、と思ったところ、
意外や意外、即興でこういう歌を作った。

はまばはめ食わば食え金剛の
他力の信はよもやはむまじ(与惣次の妻)

与惣次の妻、蓮如上人の教えを熱心に聞いておられた
与惣次という主人の奥さんが作られた歌、ということです。

食うなら食うてみよ、噛むなら噛んでみよ。
阿弥陀仏から給わった信心はよもや食うことはできない、
壊すことはできないのだ。

金剛の信心は火に焼けることも水に流されることもありません。
どんな疑謗破滅があっても壊されることはありません。
たとえ私の肉体は食べることができても、
阿弥陀如来 より給わった金剛の信心は、絶対に壊すことはできません。
即興でこの歌を作って姑はびっくりして倒れたのですが、
面を取ろうとするが、今度は取れなくなりました。
そこで姑は
『助けてくれ』と言いました。

よく声を聞いてみるとお母さんでした。
ところが姑が被っている般若の面はいくら取ろうとしても取れなかった。
そこで嫁さんは姑と一緒に蓮如上人のもとへお伺いしました。
そしてこの姑は謝りました。
今まで嫁を憎たらしく思い、聞法の邪魔をしていたけど、
蓮如上人のご説法を聞かせていただいて、恐ろしいことをしていたと懺悔しました。
聞法の邪魔をすると言うことは非常に恐ろしい謗法罪です。
こう懺悔したときに、般若の面がぽろっと堕ちました。
それが今日、よめおどしの面、肉付きの面といわれて残っている。
何故か東西本願寺に二つあるそうです。
こっちがホンモノと喧嘩しているんですね。
これはどういうことでしょうか。
般若の面。
謗法罪という恐ろしい罪を般若であらわしています。
取れませんでした。
ところが蓮如上人のご説法を聞いて謗法罪の恐ろしさを知らされて、
恐ろしい謗法罪を懺悔しました。
そのときぽろりと般若の面がとれました。
これは過去の大罪を懺悔したことを表しています。
この他力金剛の信心はどんな事態になっても壊れません。
仏凡一体になった幸せは絶対に壊れません。
浄土真宗に説かれる他力信心のすごさを表そうとしています。

仏教講座で生きる意味を聞くときの仲間

浄土真宗親鸞 聖人の教えは、本当の生きる意味
一つでした。

誰も明らかにすることのできない生きる目的を、
浄土真宗を明らかにされた
親鸞聖人や蓮如上人のような善知識のみが明らかにされる。

善知識とは、正しい仏教の先生。
その善知識方の願いは、
あなた早くこの船に乗り込んで下さいよ
と言う願い一つです。

あわれあわれ存命の中に
みなみな信心決定あれかしと朝夕思いはんべり

というのが蓮如上人の御遺言です。
みんなの人が信心決定して貰いたい
ということです。

それには善知識、同行には親しみ近づけ。
善知識に近付くことはもちろんですが、同行に近づけ。
なかなか一人で求めるのはしんどいみちだから、
共に励まし合い共に苦しいときには慰め合い、
元気のいいときにはライバル意識を持って、
共に励まし、共に進まん

はらからと本懐みごと果たすまで共に励まし共に進まん

はらからは友達。
仏縁深い友人よ、ここまで共に励まし共に進まん。
その為には一人よりは二人、二人よりは三人、

目的は一つです。
信心決定という一つの目的に向かって共に励まし合い
共に一歩でも光に向かって前進する。

同じ仏教講座聴聞 するにしても
仲間がいた方が早く進めます。

生きる意味を求めるのに挫けそうなときは励ましてくれる。
誰かが苦しいときは助ける。
同行善知識に近付け。
それが、信心決定への道です。

明るい人生が開ける方法

「無礙の光明は無明の闇を破する慧日なり」

親鸞 聖人)

無礙の光明」とは阿弥陀仏の光明のことです。
光明とはお力ということです。

阿弥陀如来のお力は十万億土の彼方から、
あらゆる障害を貫き、
私たちの苦悩の根元である
死んだらどうなるか分からない心をぶち破り、
煩悩一切をご恩喜ぶ因とする、智恵の太陽なのです。

この阿弥陀如来の本願の大きな船に乗れば、
諸有海が本願海に、
煩悩海が大智海に、
明海が光明の広海と転じ、
楽しい人生となります。

諸有海、煩悩海、無明海というのは
死んだらどうなるかまっ暗がりの明かりのない海。
それが本願の海になり、
智恵の海になり、
光明の海になり、
そういう人生が開けるんです。

青少年の犯罪が増えて、誰もなぜ生きるを明らかにする人がいない。
それを700年前に親鸞聖人が教行信証になぜ生きるを
明らかにされたのです。

温泉でおばあさんが浮いてきた

色々あって夜中の一時。
家まで帰るのしんどいので
ついつい温泉に泊まりました。

夜中にお風呂に入ったから誰もいません。

70才くらいのおばあさんが入ってきて二人きり。
あそこに浴槽が三つあって、ぬるめの水、熱いお湯。
交互に入って温冷浴、これ体にいいんだよ。

そうやっているうちにおばあさん熱い湯にずっと入っていた。
で、しばらく目をつぶってふっと上がろうとしたら、
入ってきた人が『あっ』と言った。

おばあさん湯に浮いているんだ。
『あれ?さっきまで坐っていたのに何で浮いているんだろう』
と考えている暇はありません。
『おばあちゃんおばあちゃん、大丈夫!?』

すると手が動いた。
で、入ってきた人に「あの辺の人に救急車呼んで貰えませんか」。
それまでずっとつきっきり。
大変だったぞ。
心臓マッサージして。
さっきまで一緒に湯船に浸かっていた人がね、笑い事ではない。

それが2、3分後に浮いているのだから。
それが夜中で私がいなくて入ってき
た人がいなければ、あのおじいちゃんなくなっているよ。

その後救急車来て、ご苦労さんくらい言ってくるかと思っていたけど
全然言ってくれません。
新聞には載るかと思ったんだけど全然だれも誉めてくれません。

お風呂に入っても死ぬ人があるのよ。
年末にお酒を飲んでお風呂に入ってご覧なさい。
死にますよ。
夜中って人間の体冷える。
まして朝起きたばかりの時は体温が低い。
朝風呂熱いのにどぶんと入るのは自殺行為だから辞めた方がいいですよ。

 

本当の生きる意味の歌

生きる意味の答えを、
浄土真宗を開かれた親鸞 聖人は、
歌にされています。

「生死の苦海ほとりなし
ひさしくしずめるわれらをば
弥陀弘誓のふねのみぞ
のせてかならずわたしける」
親鸞聖人『高僧和讃』)

生死の苦海、難度海です。
岸辺が見えない陸地がない。
見渡す限り大海原。
どこまで行っても果てがありません。
陸地があればあそこにあるから行こうやとなりますが、
それがない。

その難度海に私たちは長い間沈んでいます。
しかし生まれてきたのはそんな苦しみの人生を送る為じゃありません。
本当の幸せがあります。
それは弥陀の弘誓の船です。
それのみです。

弥陀弘誓の船のみぞ、苦しみ悩んでいる私たちを乗せて
必ず明るく楽しく人生を航海させてくれます。
そして弥陀の浄土まで乗せてくれます。
これが仏教です。

つまり浄土真宗イコール仏教です。
これが弥陀の誓願不思議なんだよと教えられています。

これが、仏教に教えられた
本当の生きる意味です。

 

15才の女の子の親への思い

ティーンズメールという十代の方の悩みに応えています。
最近のテーマは親子関係。

度が過ぎた親の心配を『ウザイ』と思う。
そのせいで私は家でネコをかぶり『いい子』を演じている。
でも限界が来た。
ストレスがたまってきた。
ある日、学校から帰りが遅くなった時、
母は『卒業するまではうるさく言う』と言い出した。
友達に泊まりに行く時、相手の家にいちいち電話をかけ、
手みやげをもたせ……。
ものすごく恥ずかしかった。
友達からすごい偏見の目で見られた。
兄が高校生の時、親は何も言わなかった。
私は親から『お兄ちゃんは勉強できるのにどうしてアンタは……』
と遠回しに何百回言われたことか。
こんなにも人を憎み、恨んだのは初めてだ。
親は本当の子供の心を知らない。
少年犯罪というと親たちは口々に『うちの子に限って……』と言うが、
そういう親が一番危ないと思う。
結局、親は自分の子に甘えているだけ。
親は私の本性を知らないだろう。


15才の女の子が書いている。

心配してくれる母親のことをうざい。
これ最近よく聞くけどどう言う意味?
うっとうしい。
それだと普通の日本語だね。
うっとうしい。
うるさい。
うざったい。
うんざり。

そういう感じかな。
キレる。
これは昔はアイツは切れる奴だというと頭がいい奴だったんだけど、
今は切れる奴と言われるとあいつは危ない奴だと。
誉めているのかけなしているのか分からない。

むかつく。
こういう親に対してうざいとかむかつくとか親の前で猫を被るのは沢山だと。
何もかも親に頼っているのにその親がむかつく。

金属バットを振り回した少年の動機が
「親に恥をかかせたかった」。
何の関係があるのでしょうか。
金属バットで殴るのと。

親孝行したほうがいいね。