私たちにとって最大の善知識。
お釈迦様は当然として、
親鸞 聖人のご恩、大変なものがある。
決して忘れてはならないもの。
蓮如上人は、親鸞聖人のご恩、いたるところで教えておられます。
御命日、11月28日。
そのとき、親鸞聖人のご恩を感じ、
報いようという人々の集まり、報恩講。
「そもそも今月二十八日は、開山聖人御正忌として、毎年不闕に、かの知恩報徳の御仏事においては、あらゆる国郡、そのほかいかなる卑劣のともがらまでも、その御恩をしらざるものは、まことに木石にことならんものか。
これについて、愚老この四五ヵ年のあいだは、なにとなく北陸の山海のかたほとりに居住すといえども、はからざるに、いまに存命せしめ、この当国にこえ、はじめて今年聖人御正忌の報恩講にあいたてまつる条、まことにもって不可思議の宿縁、よろこびてもなおよろこぶべきものか。
しかれば自国・他国より来集の諸人において、まず開山聖人のさだめおかれし御掟のむねを、よく存知すべし」
( 御文章3帖目11通 毎年不欠)
11月28日は、お亡くなりになられた日、御正忌という。御命日。
毎年不欠、毎年欠かさず。知恩報徳の仏事、これは報恩講のこと。
毎年必ず報恩講がつとめられている。
そこにはあらゆる国の人、身分の低い人も。
あらゆる国郡、そのほかいかなる卑劣のともがらまでも、
どんな貧しい人でも親鸞聖人のご恩を知らなかったら、
その御恩をしらざるものは、まことに木石にことならんものか。
それは全く木や石とおんなじじゃないか。
なぜなら親鸞聖人はすべての人の生きる目的を示してくださった。
このなぜ生きるかを知らなくていい、という人は人間にはありませんから。
そのご恩を感じない人がいたら、木や石とおんなじじゃないか。
蓮如上人書かれたのは文明7年。
その前までは福井県吉崎で書かれている。
3帖目11通から場所を移している。
大阪にいかれた。
そのことがここにかかれている。
「愚老この四五ヵ年のあいだは、なにとなく北陸の山海のかたほとりに居住すといえども」
吉崎のこと。「はからざるに今に存命せしめ」、
そこでいろいろなご苦労があった。
「この当国に越え」、大阪に来て。
北陸でもいろいろなことがあったけれども、命ながら得て大阪に移ってきた。
「はじめて今年聖人御正忌の報恩講にあいたてまつる条、まことにもって不可思議の宿縁、よろこびてもなおよろこぶべきものか」
ここでも報恩講を勤められるとは何とうれしいことか。
「しかれば自国・他国より来集の諸人において、
まず開山聖人のさだめおかれし御掟のむねを、よく存知すべし」
自国、他国から来られた人たち、まず親鸞聖人の教えをよく知ってくださいよ、
といわれている。
「その御ことばにいわく、「たとい牛盗人はよばるとも、仏法者後世者とみゆるようにふるまうべからず。またほかには仁義礼智信をまもりて王法をもってさきとし、内心にはふかく本願他力の信心を本とすべき」よしを、ねんごろにおおせさだめおかれしところに、近代このごろのひとめの、仏法しりがおの体たらくをみおよぶに、外相には仏法を信ずるよしをひとにみえて、内心にはさらにもって当流安心の一途を決定せしめたる分なくして、あまっさえ相伝もせざる聖教を、わが身の字ぢからをもって、これをよみて、しらぬえせ法門をいいて、自他の門徒中を経回して、虚言をかまえ、結句本寺よりの成敗と号して、人をたぶろかし、物をとりて当流の一義をけがす条、真實真實、あさましき次第にあらずや」
その後。仏法説くひとは常識ある行動をとって、
その上で人生の目的を果たす。
ところが最近は浄土真宗の教えを聞いているといいながら、めちゃくちゃ
なことをやっている人が多い。
坊主も。
蓮如上人、非常に憤慨されている。
「これによりて、今月、二十八日の御正忌、七日の報恩講中において、わろき心中のとおりを改悔懺悔して、おのおの正義におもむかずは、たといこの七日の報恩講中において、足手をはこび、ひとまねばかりに報恩謝徳のためと号すとも、さらにもってなにの所詮もあるべからざるものなり。
されば、弥陀願力の信心を獲得せしめたらん人のうえにおいてこそ、仏恩報尽とも、また師徳報謝なんどとももうすことはあるべけれ。
この道理をよくよくこころえて、足手をもはこび、聖人をもおもんじたてまつらん人こそ、真實に冥慮にもあいかない、また別しては、当月御正忌の報恩謝徳の懇志にもふかくあいそなわりつべきものなり」
だからこそ今月の報恩講にはぜひとも正しい親鸞聖人の教えを知って、
信心決定してください、といわれている。
心を本当に懺悔して、真実の信心決定しなければ、
人の真似ばかりをして、それも名聞。
人の真似ばかりで人生の目的を果たすことがなかったならば
それは本当の報恩講にはなりませんよ。
人生の目的達成のための報恩講なんですよ。
そうでなければ親鸞聖人のご恩に報いることにはなりませんよ。
「正義に赴かずば」、信心決定しなければ、ということ。
「たといこの七日の報恩講中において、足手をはこび、ひとまねばかりに報恩謝徳のためと号すとも、さらにもってなにの所詮もあるべからざるものなり」
人の真似ばかりしてはだめですよ、ということ。
「されば、弥陀願力の信心を獲得せしめたらん人のうえにおいてこそ、仏恩報尽とも、また師徳報謝なんどとももうすことはあるべけれ」
信心決定してこそ、仏恩法人にもなるし、
善知識のご恩にむくいることにあるんですよ。
「この道理をよくよくこころえて、足手をもはこび、聖人をもおもんじたてまつらん人こそ、真實に冥慮にもあいかない、また別しては、当月御正忌の報恩謝徳の懇志にもふかくあいそなわりつべきものなり」
「この道理をよくよく心得て」とは、
弥陀願力の信心を決定する、ということ。
「真実に冥慮にもあいかない」とは
本当に親鸞聖人のご恩に報いることになる。
私たちが、親鸞聖人のご恩を知り、それに報いるということは、
真実信心を獲得するということ。
信心決定してこそ、親鸞聖人のご恩に報いることになるんですよ。
だからむかしから報恩講、非常に大事な行事として、
「報恩講に信をとれ」
本当に親鸞聖人のご恩に報いる集まりにしようじゃないか。
報恩講に信を取れ、ということがいわれています。