仏教研究室

お釈迦さまってすごいですよね。一緒に仏教を学びませんか?

慶應大学の医学部生が自殺

慶應大学の医学部生が自殺した。
慶大医学部といったら、東大医学部と並ぶところ。
皆が寝てる間も一生懸命勉強していた。
「医者になって幸せになりたい」その気持ちで勉強したが、未来は更なる不安
自分に幸せはないのか、と自殺

肛門に目薬さして、見当違いのことばかりやっていて一切が無駄になる。
これではあまりにもかわいそう、と苦悩の根元をぶち破って
安心満足の身にしてみせる、と阿弥陀如来は約束しておられる。
若し信楽の身に生まれさせることができなければ、命を捨てますよ。
命をかけて約束せられている。
今も、命をかけて信楽にして見せよう、とされているのが阿弥陀如来

それを私たちがかってに底を入れて、
「本願力はこんなもん」と思っている。
親鸞 聖人は、全力を尽くして本当の本願をとかれている。
苦悩の根元が必ず晴れるときがあるのだ!
親鸞聖人も言われている。

阿弥陀如来 を信じればどんな願いも必ずかなえられるのだ。

阿弥陀仏の救いの対象

お釈迦さまが一生涯かかって教えられたのは、どんなことか。
お釈迦さまが一生涯仏教を説かれたのは、阿弥陀如来の本願一つです。
お釈迦さまの先生である阿弥陀如来の御心ひとつをといていかれた。
阿弥陀如来の本願というのはお釈迦さまの先生が

約束をしておられるということです。
ではその約束とはいかなるものか。

説我得仏

お釈迦さまが教えられたのは36文字だけ
正確に言うなら36の深い御心だけ、
この36文字を教えられるときにお釈迦さまは自殺をしようとされた。
それは、こんな深いことをといても誰もわからないだろうということで、
自殺しようとされた。

けれど、一生涯かかって説いていかれた。
全人類が助かるたった一つの道である阿弥陀如来の本願を説かれた。

現代日本のほとんどの人は仏教の「ぶ」の字も知っていなかった。
お釈迦さまがこれひとつを教えられたか、これひとつ教えられた、
ということを知っているということはとても不思議なことであります。

ではこの36文字で何を誓われているのか。
説我得仏・・・私が仏になりましたならばこうします。

アメリカで大統領選挙がありますけど、
私が大統領になりましたなら以下のこと約束します、
ということ。

これは阿弥陀如来が仏になる前に、こうしますと言われた言葉。
だけど阿弥陀如来は仏になって十劫たっていますから今は問題ない。

次に阿弥陀如来は約束の相手。
一人で相撲を取れないように。
約束の相手を十方衆生と言われています。
十方というのは仏教では大宇宙のことを言う。
衆生とは生きと生けるものすべて。
私達は人間でありますからすべての人。
大宇宙のすべての人と約束します。
この記事を読んでいるあなたも。

十方衆生との約束と言うことから親鸞 聖人は弘誓といわれている。
アメリカの大統領がいくらすばらしいことを約束していても、
アメリカの人だけ。

誰それが県知事になったら、
知事室を三階から一階にします。
とか言っていてもそれは、県民との約束。
アメリカの人には関係ない。

私達が約束するときは限られた相手。
阿弥陀如来はすべての人と。
大宇宙すべての生き物に御心をかけておられる。
ではこれ以上広い相手と約束すると言うことはないから、
こんな広いお約束はないと言うことでしは弘誓と言われる。

教学の大切さ

顕正の面で言いますと、
よく自分が理解できて
いますから筋道立てて話ができる。

ところが教学をしていない人は無茶苦茶なとりとめのない話になる。
相手に嫌がられて伝えられない。
こういう違いが出てくる。
またお聖教の理解から言えば。

正しくお聖教の解釈ができる。
しかしないひとは仏語は常識では解釈できないのが結構ある。
世間の常識で間違った解釈をしてしまう。
またはじめての人からの信頼性からすれば
教学力のある人は仏教の教師のように思われて信頼される。

話も聞いてくれる。
ところが、教学力のない人は、間違ったことを言う。
また言うことが思い出せなかったりして信頼されない。
正しく教えて下さる人は信頼されるが、
間違ったことをいったり、仏教の言葉が思い出せない。
そんなことでは信頼性も弱いですね。

そして仏道を求めることにおいて言うならば、
逆境を乗り越えて、求道できるんですよ。
筋金が入っていますから。
逆境を乗り越えて求道ができる。
仏法間違いないと
知らされておりますから。

ところが教学力のない人は筋金が入っていない。
筋金が入っていない。
だから順境の時はいいが逆境となると仏縁が離れる。
また化城に陥りやすい。
いろんな面でこれだけの違いが出てくる。

よくあなた反省して貰いたい。
毎日欠かさず。

仏教に対する理解が深まれば必ず他の人にも伝えたくなるし
仏法に燃え上がる。
燃え上がらないのは他人に伝えるものを持っていないからです。

 

仏法者の聖なる使命とは?

「聖使命」の「聖」はきよらか。
「使命」は命を使ってでもなさねばならないこと。
それは我が身の後生の一大事の解決であり、
その道を一人でも多くの人に伝えること。

それを覚如上人は教えて下さっている。

明らかに無漏の慧灯を掲げて遠く濁世の迷闇を晴らし、
遍く甘露の法雨を注ぎてはるかに枯渇の凡惑を潤さんがためなり。
(御伝鈔)

これが仏法者の聖使命であると教えて下さいます。
これは覚如上人のお言葉で大変な名文です。

意味。
私たちは明らかに無漏の慧灯を掲げるとある。
無漏とは有漏に対して。

仏智のことを言います。
有漏は煩悩
その煩悩が無くなったのを無漏という。
仏の智慧を無漏と言います。
智慧の灯火とあるのは、慧灯です。
ですから無漏の慧灯で、阿弥陀如来の救いです。

他力の信心を明らかにあなたに伝えて。
我々がお伝えするのは阿弥陀如来 の救い。
他力の信心を明らかに伝えて。
遠く濁世の迷闇を晴らし。
遠くとは今から未来永劫。

これから。
遠く。
今から未来永劫に。
濁世の迷闇を晴らし。
濁世とはこの娑婆世界。
五濁悪世。
この世の中みな苦しみ悩んでいる。
そういう迷える人の闇を晴らす。
皆無明の闇を抱えて迷っている。

苦しみ悩んでいる濁世の人の迷いを晴らす。
救うと言うことですね。
これを阿弥陀如来の本願によるしかできませんから。
弥陀の本願を明らかにお伝えし、苦悩の根元を破る。

遍く甘露の法雨を注ぎて。
分け隔てなく一切の人々に後生の一大事がありますから。
全ての人々にお伝えしなければならない。
甘露の法雨を我々は注いでいく。

法雨は仏法を雨に喩えている。
雨というものは全てのものを育成する。
その雨と言っても、酸性雨じゃありません。
酸性雨ではなくて、甘いつゆ。
栄養満点の甘い露。
お釈迦さまの教えを言います。
甘露と言います。

八万四千の法門。
仏教です。
だから、八万四千の法門、全部法雨です。
法の雨。
我々を生かす法。
それを釈尊は雨の如く説いていかれた。

我々は甘露を注いでいく。
はるかに枯渇の凡惑を。
これは遍くもはるかにも
同じ事です。
はるかにとはすべて。
十方衆生一人残らず差別なく。

法雨とありますから、枯渇の凡惑を潤すと言われている。
乾いた凡惑、煩悩具足の私たち。
そういう私たちを潤す。
甘露の法雨を注いで苦しみ悩んでいる我々を潤して下さるのが仏法ですから。

明らかにしなければならないのは弥陀の本願。
人生の目的は弥陀の本願によらねば苦悩の根元は絶対に晴らすことはできませんから。
無明長夜の灯炬を掲げていく。

濁世の迷闇を晴らす。
あまねく、十方衆生一人残らず甘露の法雨を注ぐ。
すべての人々を救う。
乾いた。
法に飢えていますから。
これが私たち仏法者の聖使命。

禅宗の開祖ダルマさん

極楽地獄に通う分かれ道
踏み迷うなとにらむダルマさん

これも知っておいたらいい。
達磨大師と言えばもとはインドの人で120歳で中国に渡った。
禅宗の開祖です。
ダルマさんがあんな怖い顔をしているのは、厳しい修行に挫折しか
かって、もう辞めようかなという心を自分で誡めている。
それはそのまま我々、ダルマさんのように極楽に我々はいかねばなりません。
地獄にだだ走りしようとしているのが我々。
それを誡めていかねばならない。
慢心を叩き向上心を持つ。
反対に怠慢、怠惰な懈怠な心で恩を忘れ恩に背き恩に逆らう生活をして
恨み呪って人のせいにしているそんな人は益々、蟻地獄になります。
極楽地獄か心構え一つで決します。
どう言う心で日々生活すればよいのか、端的に教えて下さっている。
正に今人生の分岐点。
極楽へ行くか地獄へ行くかの分岐点にたっている。
我々は常に聞かせていただかなければ地獄に駄々走りするから、常に聴聞 をする。
我々の心こそが迷わす心ですから。
仏教で我々の心を惑という。
惑というのは煩悩
元々迷いいっぱい。
そう言う私たちだから因果の道理を何度も聞かせていただき、
無常と聞いても上の空、真実に背く、反した心しか持っていないから。
常に教えを頂いて。
向上心を味方にし自惚れ心を叩いていく。
おかしな心を叩いていく。
あなたの心一つで地獄極楽かにわかれてくるから。
心許せば身の破滅と教えて下さります。
常に戒めて貰いたい。
極楽地獄に通う分かれ道と言うことで、こういう例えで教えられた

非常に心に強く残った話ですが、最初の頃考える。
仏教を聞き続けるかどうか。

地獄へ行くか極楽へ行くかの分かれ道に君はたっている。
幸福にも相対の幸福と絶対の幸福がある。
相対の幸福のみ、言葉を考えればどう生きるかのみを考える。
下り坂だ。
下り坂だから楽。
しかし先が見えている。
臨終になれば全てに裏切られる。
途中までは楽だが、途中で道が無くなっている。
崖から落ちる。
こういう道を行くか、上り坂を行くか。
下り坂は楽だが最後身の破滅を引き起こすが、上り坂は林があって道が見えない。
しかし地図がある。
林を通り抜けていけば素晴らしい大豪邸がある。
そこにいけば欲しいものが何でも手にはいる。
地図を羅針盤として地図の通り進んでいけば、
つまり教えの通り進んでいけば極楽浄土の世界がある。
どちらを選ぶのが賢いかなと言われた。
これを聞いて俺は地獄で良いという人はないと思います。
辛いけどもこの道を行った人の方が利口。
相対の幸福で幸せになった人があるか。
まさにこの話、歌の通り、
まさにあなたが地獄にいこうとしているのを先輩が止めてくれた。
先輩が地獄に行ったら駄目だと引っ張って下さっている。
迷っているのが我々だから。
間違うなよ道を迷うなと誡めて貰えないと進めないのが我々です。

別れ路のさのみなげくな法の友

別れ路のさのみなげくな法の友
また遇う国のありと思えば

法然上人のお歌

別れ路、いよいよ親鸞 とも別れが来たか。
親鸞聖人は越後、法然上人は土佐。
おそらく今生最後の別れとなるだろう。
しかし、さのみ、これはそんなに。
そんなに嘆き悲しむな。
法の友、法友だから。

これは、誰でも死んだら極楽いけるということではない。

あくまでもこれは信心決定した人の心です。
多くの人が誤解するのは、
いよいよ別れの時が来たがそんなに嘆くな
また弥陀浄土で会えると思うから。
誰でも弥陀浄土で会えると思うから。

そうではない。

信心決定したもの同志なら再度の面会は弥陀浄土で会うことができる。
この世では会えませんが、信心決定したなら弥陀浄土で会うことができる。
また会う国のありと思えば。
再度の面会は弥陀浄土
これが断定できる。
自信いっぱい断言できる。
また会うことができるから、今しばらくの間でのわかれでしかない。
弥陀浄土であえるではないかとおっしゃる。
しかし今しばらくの別れでもつらい。
弥陀浄土であえるとは分かっていますが
別れのつらさをこのように表さずにおれなかった。

阿弥陀経という経典にこういう言葉がある。

倶会一処。阿弥陀経
これは信心決定したものは倶に一つの処であうことができる。
極楽浄土で会うことができると、こういう言い方でお経 にある。

これなぜかたまににある。
間違った使い方ですけど。
で一緒にあえると。
骨は一緒でも魂が違うから。
信心決定しない限り会うことはできない。
あなたもこういう歌を歌える身になってもらいたい。

自分の死は臨終になるまで分からない

今までは他人のことだと思ったに
俺が死ぬとはこいつたまらぬ

これはある有名な医者が歌った歌ですが、
医者は人の死をみとる、人の死ばかりみているんですけど、
人の死を観ているときと自分の死を迎えるときとは全く違う。

天地雲泥の差がある。
檻の中の虎を観るときとジャングルの虎を見るとき。
我々は他人の死しか分からない。
自分の死は臨終になるまで分からない。
目の前が真っ暗になる。
ガンと宣告されるだけで、目の前が真っ暗になって、大地が崩れ去る気持ちになる。
しまったと後悔する。
今までは動物園の虎、人の死、人や先人や先、自分の死ぬことは計算に入っていない。
自分の死と人の死は全然違いますから。
みなさんもこういうとき来ます。
まだまだ死なないと思ってもこういう後悔を残してはならないと言われている。
死という問題が私の死となれば居眠り半分で聞いておれない。
鯖の目が腐ったような目で聴聞 できない。
どんぐり目で聞かずにおれなくなる。
それがどうしても人の死、他人の後生としか思えないから。
休み時間は目が醒めるが、聴聞となると眠くなる。
我々はろくな種蒔きがないからそう言う人が出てくるが。
おのれの後生 に驚いたら仏教聞いているときに眠たくなる、
そんなことは考えられない。
どうして眠たくなるのか貴方の後生の一大事だぞ、
後生の一大事をなんと思っているのか。

自分の死ということ。
ひとえに宿善まかせですからなかなか自分の死と思えませんが、
思えるかどうかはあなたが一回一回の御縁を大切に求めていく。
だから宿善を大切に求めて貰いたい。