仏教研究室

お釈迦さまってすごいですよね。一緒に仏教を学びませんか?

たのむ

仏教に
「たのむ」
という言葉があります。

この「たのむ」というのは漢字で書くと
「憑む」です。

たのむというと普通は「頼む」という字で、
「お願いする」という意味で使っています。
「たのむから僕に答案をみせてくれ」
「好きと言ってくれ」
「焼き豚おくれ」
とか
「お願いする」という意味で使われます。

今から500年前、親鸞 聖人の教えを明らかにされた
蓮如上人は、たのむというのはお願いするという
意味で使われませんでした。
当時そういう意味はありませんでしたから。

「たよりにする」「あてにする」という意味です。

御文章で「たのむ」というのを
「たより」「アテ」にしているという意味で
使われているのはどこでしょうか?
 御文章1帖目11通電光朝露に
「まことに死せんときは、かねてたのみおきつる妻子も財宝も、
わが身には一つも相添うことあるべからず。
されば死出の山路のすえ・三塗の大河をば、唯一人こそ行きなんずれ」とあります。

いよいよ死んで行くときには
これまで、たよりにして来た、アテにしてきた妻や子供、お金や財産も
何一つ持ってはいけません、
ということです。

咳をしても一人

「咳をしても一人」
この俳句は日本ではかなり有名。

「どうしたの?」
と心配をしてくれる誰かがいるのではなく、
誰もいないさみしさです。

これは単に「今誰もいない」ということだけではなく
「昔はそうじゃなかった」という意味があると思います。

昔は夫が妻が、子供が
「風邪かー」
早めに飲もうパブロン、ルルが効くって、
と言っていたような「過去」が、
「あの頃」というのがあって、
ところが今そういうのがなくって、
咳をしても独りというように感じます。

昔とてもうまくいっていた
「あの頃」があります。

それが取り返せなくなった時のさみしさです。

昔あの人と会って、楽しかったというのがあると
それが途切れると、とたんに寂しくなります。
あまり高いところにいっちゃうと、一気に落ちちゃいます。

おばあちゃんの心電図のような人もあれば、
ジェットコースターのような人もあります。
しかし結局は一人。孤独です。
そういう人生は、底知れぬ寂しさが出てくるのは当然です。

 

来客に対する子供の反応

人間は、小さい頃から、孤独で愛されたいと思います。

たとえば、子供のときにお客さんがやってきます。
自分の父親母親が、世間話をするのがうれしかった
楽しかったという人いるでしょうか?
私は楽しくありませんでした。

家の空間に「エイリアン」が出てくるようなものです。

「よく分からない会話に花咲かせやがって」
と思います。
そういう時の子供はうつむいています。
黙ってその場をふさいでいます。
いてもいなくてもバツが悪くなります。

お客さんの方が気を使って
「どうした?」
と言っても
「ええ・・」
だけ。
会話が続きません。
何を言っていいのか分かりません。

自分に会話の照準をあわせてほしいのに、
エイリアンの侵入によってはばまれます。
「もっと私をかまって。大事にしてよ」
と思います。

いつもさびしいのです。
放っておかれると、孤独不安になります。

 

仏教を聞き始めた理由

「あなたはなぜ仏法を聞き始めたのか?」

という質問に対して
「人並み以上に恵まれているのに虚しいと感じるから」
と答えた人が多くありました。

他にも、充実しているのに、生きる目的が分からないからとか、
富や財産は虚しいからという人もありました。

また、お経の中で
「独生独死独去独来」
忘れられない衝撃をうけたという人もあった。

要するに、虚しいとか、
なぜひとりぼっちで孤独不安
そんな心のつぶやき、
この心はどういう所からやってくるのでしょうか?

それはブッダしか教えられていません。
仏教を聞けばその根本原因が知らされます。

 

孤独と不安

産経新聞に、どうも心に傷を持っている、暗い、
健康が損なわれている、
という記事がでていました。

実際多くの人がよく「疲れた」といいます。

生きることに疲れたと言っていいでしょう。
つまらないギャグをいい、
「お前といると疲れるなー」という会話があります。

「何がしたいか?」
という問いに
「疲れることはしたくない」
と答えます。
これはよく分からない答えです。

その本によると、8割は生きていることにむなしさを感じている、
挨拶に「だりー」というのがある。
「えらい」「くたびれる」「あーだりーだりー」
授業が終わって、「あーうれしい」と言う人はいません。
「あーよくねた」とか
「あー、だりー」ばかりです。
そして「疲れたー」。
寝ていたはずなのに。
「つまらない」
という言葉をよくつかいます。

電話で、
「もしもし、最近だるくて、なにかおもしろいことない?
なんのサークル入った?それおもしろい?」

自分がつまらないから、人が気になります。

そして、むなしいだとか、さみしい、ひとりぼっちだなぁ、
孤独、焦燥感、生きていく未来に対する不安を感じている人が
非常に多くあります。

 

なぜ勉強しなければならないのか

以前、文部科学省
「なぜ勉強しなければならないのか」
という問いにどう答えればいいか、考えたことがありました。
つまり、国が乗り出しすほどの難問です。

勉強が好きで好きでたまらない、快感、
という人はあっても一部です。

私も何でこんなに意味のないことをするのかと思っていました。
社会で役立つかと思ったとき、
相当役に立たないものばかりです。

意味のないものをとにかくヤミクモに覚えます。
できる人はいい子、
できない子は悪い子、
勝ち組、負け組と分かれます。

これはいかがなものでしょうか。

楽しいものなら問題はありませんが、
なぜ苦しいことをしなけりゃいけないのか、
あなたも授業は、苦痛以外の何者でもない。

実験でも、なぜこんなデータをとるのか分からないけれど、
自分が休むと他の人が困るからというお付き合いします。

レポートを自分でも何を書いているか分からない、
先輩の考察をちょっと変えて書くという人もいます。

なぜ興味のわかない事をしなければならないのか、
たいてい、進学のため、大学に入るためです。

では大学生はなにしに大学へ行って勉強しているのでしょうか。
休講ならバク転して喜びます。
授業が楽しくて有意義なら、普通は悲しむはず。

とりあえず鼻をつまんで、大学を卒業して働きます。

今は不景気だから卒業するときに苦しむ人もある。
働くのは何のため?
お金がなければ、生きていけない。
結局そうやって、どこかに勤めて生きているのは何の為なのか。

これが改めて聞かれると分からない。
子供がよく聞くけど、じゃ勉強頑張ります、とはなりません。
結局なぜ勉強しなければならないのか分からない。
なぜ生きるのか分からない。

生きる意味
生きる目的
分からない。

楽しいことばかりならいいけど、
喜ばしきことばっかりならいいですよ。
苦しいこともあります。
うじうじ、くよくよしています。
なにか暗い、やりきれない、つかれる、あーあー、疲れた、だりー
そんなに疲れていないはずなのに
疲れている生きていることに。

そんなに気のりしない。
楽しいことばかりじゃないのに
なぜ勉強するのか答えられない親ばかりです。

それは、究極的には生きる目的が分からないからです。

 

僧侶と門徒の理想的な関係

ペプシコカ・コーラの戦いがありました。
マイケルジャクソンとマイケルジョーダンの宣伝合戦。
マイケル戦争です。

お互いに悪口を言い合い罪悪を造るだけです。


実に「僧侶」と「門徒」の関係は、理想的な関係です。
僧侶門徒に仏法の話をする。これを法施といいます。
門徒が感謝してすこしでもと仏法の為に布施をさせていただきます。
その財施を頂いた本当の僧侶は自分の為に使わないです。
浄財です。

仏法をお伝えするために使われます。
仏教が発展してきたのはこの為です。

僧侶」と「門徒」のあいだで金が回るのです。
回る度に仏縁が深まるのです。

ペプシコカ・コーラはやればやるほど罪悪を造ることになります。
僧侶門徒は、本来、
このような理想的な素晴らしい関係です。
幸せに恵まれます。