仏教研究室

お釈迦さまってすごいですよね。一緒に仏教を学びませんか?

料理の素材と腕前の関係

徳川家康のエピソードで、
この世で一番美味しいものは何かと聞いたという話があります。

そのとき答えた武将達は全員落第したのですが、
局のお梶が「塩でこございます」
と答えました。

なるほどと思った家康は、
「ではこの世で一番まずいものは何か」
と聞きます。

「そも塩でございます」
と答えると、家康はさすが小梶と
感心したといわれます。

塩そのものがおいしいものでもまずいものでもありません。
さじ加減一つで塩は料理を美味しくもすればまずくもする、
問題は塩を入れる料理人の腕前ということです。

どんなに素晴らしい食材を用意しても、
料理人の腕前が悪ければ活かされません。

今日はモノはあふれ、情報があふれています。

私たちを楽しませ、喜ばせるための材料には事欠きません。
ところがなぜにこんなに、満たされないのか、
虚しいのか、生きる意味がわからないのでしょうか。
それは、それらの材料を活かす腕前をもたないからです。

最高級の食材をつかっても料理人の腕前がなければ
おいしい料理はできません。
最高級の楽器を使っても演奏の腕前がなければ
すばらしい音楽はできません。
どれだけ、金やモノや情報に恵まれても、
それを活かす智慧をもたなければ素晴らしい人生にはなりません。
そういう智恵こそ本当に学ばなければならないものです。

 

極楽に往けるかどうかいつわかる?

よく、臨終ににっこり笑って死んで行ったから
今頃極楽だろうという人があります。
逆に、苦しんで死んだから地獄だろうという人もあります。

ところが死に様と救われたかどうかは関係ありません。

覚如上人はこのように教えられています。

然れば平生の一念によりて往生 の得否は定まれるものなり。
平生のとき不定の念に住せばかなうべからず。
(執持鈔)

平生の一念に、浄土往生 の可否は決する。
平生に、往生がハッキリしていなければ、浄土へは往けないのである
ということです。

こうもいわれています。

平生のとき善知識の言葉の下に帰命の一念を発得せば、
そのときをもって娑婆のおわり臨終とおもうべし。
(執持鈔)

未来永劫、極楽往生 間違いなしという他力の信心の決定した人には
臨終のありさまや、死の恐怖の有無、
死に様などは全く問題にならないことなのです。

 

臨終のありさまと往生は無関係

覚如上人の『執持鈔』にこう記されています。

一切衆生ありさま過去の業因まちまちなり、
また死の縁無量なり、
病におかされて死する者もあり、
剣にあたりて死する者もあり、
水に溺れて死する者もあり、
火に焼けて死する者あり、
乃至寝死する者もあり、
酒狂して死するたぐいあり。
これみな先世の業因なり、更にのがるべきにあらず。
                 (執持鈔)

臨終の善悪は沙汰しないということが書かれています。


病におかされて死ぬ人が日本人の大部分です。

剣にあたりてというのも、ニュースをみると
通り魔や一家惨殺事件がおきます。

水に溺れて死ぬ人も、夏になると多く、
家でも風呂で不慮の事故で死にます。

火に焼けて、火事で死ぬ人もあります。

寝死する人というのは、朝起きてこずに死んでいる人です。

酒狂してというのも、酔っ払いが線路に落ちて死んだり、
お堀に落ちて死にます。

過去にどんな種をまいてきたかで決まります。

眠る様に死んだからだから極楽往生間違いない
目を向いたから地獄じゃろう
何とか静かに死にたいものだ。
死に様ばかりを問題としています。

死に様と往生 とは一切関係ありません。

生死流転の本源が自力の迷情であることを知らないのです。

ブッダの絶望への挑戦

ブッダが35歳から80歳までの45年間
説かれたのが仏教です。

あまりにも素晴らしい救われた世界を体験した
あなたにも早くこの世界に出てもらいたい
余りにも素晴らしい世界に出たので、
どんなに伝えようとしても、
疑ったり、謗ったり、誤解したりするに違いない。

恐ろしい謗法罪を作ることにもなりかねません。

そうなれば地獄に堕ちてしまい、余計苦しませることになります。

それならいっそ口をつぐんだほうがいいのではないかと
ブッダ自殺をしようとさえされました。

伝えても分からないのが伝えようとさえしないで分かるものか
初転法輪」とは、初めて法の輪を転がす、ということで、
初めて言葉にかからない不可思議不可称不可説の世界を伝える
土台無理な絶望への挑戦をはじめられたのです。

 

自分の行いわかってる?

自分の種まきはわかっているというのが
常識になっています。

それは自惚れています。

実は悪業をため込んでいても気がつきません。

親鸞 聖人のお言葉で言うと
歎異抄後序に
「されば若干の業をもちける身にてありけるを
 助けんと思召したちける本願のかたじけなさよ」(歎異抄
といわれています。

「若干の」とは、無限の、数え切れない、
は、悪業です。

人間っていうのは、
自分の悪業っていうのは把握してると思ってます。
自惚れています。

人殺ししたわけじゃないし、
泥棒したわけじゃないし、
知ってて犯す罪と知らずに犯す罪があって、
知らずに犯す罪のほうが恐ろしいのです。

こっちのほうが圧倒的に多くあります。

開放性結核の人がたんを吐くとき、
知っててやるのと
知らずにやるのと影響が全然違います。

大人が焼け火箸を大人が握るのと、
赤ん坊が握るのと全然違います。

昔ある人が、一緒に旅行にいった人が
口を利いてくれなくなりました。

それは、寝ているときのいびきがうるさくて眠れなかったからです。
その発生源を突き止めてみると、その人でした。
眠っている人にとっては、全く悪気はありません。

知らずにつくる罪です。

仏様のまなこからご覧になれば、
いつなんどき、どんな目にあっても文句の言えないような
カルマを持っているのです。

運命の決まり方

テーマは、生きる目的は何かということです。
それは幸せになるためです。
不幸になるために生まれてきたんじゃありません。
幸せになるにはどうしたらいいのか、
運命は何によって決まるのかという事です。

自分の未来がついてるかついてないか、
どんな運命が待ち受けているか、
誰しも大変関心を持っています。

就職で成功する人、失敗する人結婚 に失敗する人、成功する人
そういう未来に受ける運命に大変関心を持っているのが私達です。
机上の空論じゃありません。あなたの問題です。

仏教では、それを自業自得と教えられています。


自業自得の得、得るとは、受ける、ゲットです。
受け取る運命です。

問題はその次です。
これからが本題に入っていきます。

自業自得の自業とは、は行いですから、自分の行いです。

ひどい目にあうっていう事は
自分の行いのどっかに問題があったっていう事です。

暗がりの中で種をまく、
どんなのが出てきたか見れば
自分が何まいてたかわかります。

自分が食べてるものって一杯あります。
これが善でこれが悪っていえる?
明確に線引きってできません。

だから、自分の種まきを反省して、
悪い種まきを止めてよい種まきをしましょう
といわれます。

キリスト教と仏教の違い

よく
「ちぇっ」
「ったく」
「もー」
という人がいます。


うまくいかない、ついてない時に
思わずもらすため息です。

 

反対に
「ラッキー」「ついている」
「運がいい」とか、口にする人もあります。

これから先どんな運命が待ち受けているのか、
誰しも大変強い関心を持っています。

善い運命っていうのは幸せ
悪い運命っていうのは不幸のことです。

みんな幸せな運命をたどりたいですし、
反対に不幸な運命をたどる事を誰も求めちゃいません。

でも人生ってある日突然、
何で自分だけ、ついてないなっていうことがあります。

結婚 する人も、しない人もあるでしょう。

結婚 しても、夫婦断絶、
親子断絶って言う人もあるでしょう。

ものすごいアットホームって言う人もあるでしょう。

就職しても、上司が意地悪とか、
人間関係が大変って言う人もあれば、
毎日がやりがいがあって給料が多い、
休み多い、ほんと恵まれてるって言う人もあります。

幸せを夢見ながら
なかなかうまくいかず
ため息を漏らす人が少なくないのが実態です。

では、運命って言うのは、一体何によって作られるのか、
誰が決めるのでしょうか。

運命を知りたくても、
これから先がわからなくって不安に思う人も少なくありません。

これについて、世界の二大宗教と言われるものに
キリスト教仏教があります。

この2つは大体似たようなことを言ってんだろ、
悪い事は言ってないだろうと
区別のつかない人ばかりです。

運命について根本的なところで、
全く違った者である事を知らないのです。

キリスト教では、運命はが創って与えるもの
仏教 では、自分の行い()による自業自得です。

この2つはまったく違うのです。