仏教研究室

お釈迦さまってすごいですよね。一緒に仏教を学びませんか?

人生の目的完成したらつまらない?

なぜ人生の目的を完成したらつまらないかと思うかというと、
生きる意味を病気治し、金儲けと同じようにしか考えられてないからです。

幸せ完成したらつまらないと思うひとがあると思うんだけどね、
そんなことないですよ。
夏休みってあるでしょ、思い出して欲しいんですけどね、

夏休みは始まって終わるものです。

その夏休みに宿題がよく出ますね。
夏休みの宿題はやらなければならないと思っている純粋な少年少女だとします。

私なら小学校の頃はそうでした。

夏休みの友」というのは、子供をだます名前で、共ではありません。
小学生の敵で、心の負担でした。

発明工夫か自由研究、ほとんどの人は自由研究などやらない、
発明工夫も全然考えてない。
提出日の朝でもつくれそうなものです。

割り箸の後ろに接着剤で爪楊枝をつけて楊枝つき割り箸、
食事の後に歯が掃除。
そんなの持ってきている人いた。
ふざけるなよおまえ、そんなので終わりか、努力した自分が馬鹿だった。

宿題と言うのは計画を立てて、前半で終わらせようと日割り計算、

国語の宿題何ページ、理科何ページ、
10日で終わらせると1日何ページ。

いざ実行しようとすると無理な事に気が付きます。
30分くらいでダメだ。

明日しようと繰り越します。
どんどん繰り越されて、消費できない繰越、借金がたまります。

すっ飛ばして、8月もどんどん過ぎてしまいます。
そして集団登校日、そこでみんな日焼けしたり田舎いったとか、泳いだとか、
ところで宿題できた。
「楽勝」
「終わった」
しまったーーー、どうしようで2日間が過ぎる。
まだ一週間有るからで3日間おわる。
振り返ってみると絵日記がある、もう終わってる。
天気、友達と外歩いた、今日雨、今日晴れ、新聞の天気を書いていくデッドヒート

読書感想文はあとがきを写します。
こういうシーンがどこの家庭でも見受けられる夏の思い出です。

中間地点で本当に宿題すっ飛ばして楽しめたか

「やらなきゃ、やらなきゃ」
とチクチク思い起こすが
「でてくるな」
「思い出すな」一生懸命宿題。

ないないない、知らない、知らない、
思う心の底から楽しめず、

やらなきゃならないことが残っています。

逆に宿題が終わってしまったら、どうか。
夏休みは終わるのか、そんな馬鹿なことはなく、ここから私の夏休みだ。
こういう夏休みを過ごされたでしょうか。

実にすがすがしく、朝から晩まで遊びぬき三十一日まで遊べます。

やらなきゃならない事が終わってるから思い切り遊べるのです。


人生の目的も夏休みの宿題みたいなやらなければならないこと、
これが終われば人生を満喫、心の底から楽しめます。

それでこそ心の底から充実、学ぶ事、チャレンジ、健康で過ごせる、
金が儲かる事、本当にもう完成してこそ
あと心の底から毎日を満喫する事ができます。
つまらないどころか非常に素晴らしい、充実が得られます。

完成したらつまらないなんて思う人は本当の生きる意味を知らないから。

つまらない人生しか知らないからそう感じるのです。

宗教ですかなんていっている人は笑ってしまいます。

抱腹絶倒、笑止千万です。

 

やっぱり宗教ですか?

この前しばらく話をしていたら、
「やっぱり宗教ですか」
と聞かれました。
これはしっかり答える必要があります。

このような質問は、まず否定です。
「全然違う」
「全く違う」
なぜかというと、

ブッダは、九十五種世を汚すといわれています。
つまりこれってオウムや法の華等の外道(九十五種)ですか
と聞いてきているのです。

「やっぱり外道ですか」
「全然違いますよ」

 

ではなぜ宗教でダメなのか、違うのかというと、そんな宗教 はひとを不幸にするからです。
そんな宗教 では幸せになれないからです。

なぜならそんな宗教 では死ぬまで求道だからです。

ですからそんな宗教生きる意味には明確な違いがあります。
このブログと宗教とのちがいがあります。

死ぬまで求道は完成がありませんが、生きる意味は生きている平生に完成のある平生業成です。これが本当の生きる意味なのです。

私たちが何かを求める理由

私達がものを手に入れるのはなぜでしょうか。

もの、人、金をえて心を明るくしたい、
ものを得ても心が明るくならないなら必要ないし、
そもそも魅力ない。

服で心明るくなる人は服が価値があります。
それ以外の人にはあまり意味ない。

カードゲーム集めなら、その好きな人は心明るくなる、価値があります。
私は興味ないので心明るくするものではありません。

釣り、やって楽しいと感じる人ありますが、
待ってるだけと思う人もあります。
そうなると退屈で虚しいものになります。

何かをするときは心を明るく楽しくする為にしています。
明るくならなかったら必要のないもの。

もとめるのは心の明るさです。
要はどうすれば心を明るくできるか、これを知るのが肝心です。

ではなぜ暗いのか、晴れないか、満足しないか、すっきりしないか、
しらないことには心の底から喜べない。

それを教えたものが仏教です。

こんな素晴らしい教えはありません。

ジャネーの法則・加速して生きる

私たちはやがていつかは死んでいかなければなりません。
人の命ははかないものです。
ジャネーの法則というのがあります。
人間が10歳まで感じている時間と、10歳から80歳までの時間は
大体同じくらい。

20歳から60歳までは、
10歳までの3分の1くらいにしか感じない。
40年をだいたい13年くらいにしか感じない。
となると10歳になると、もう人生の折り返し地点です。

東日本大震災もどんどん過去のことになっていきます。もう6年。
これと小学校の6年間、同じに感じられるでしょうか。
6年前から今、早いよ。
小学校の時、ずっと小学校が続くかと思っていた。
それがあっという間。
今年も10月が終わる。
恐ろしいスピードです。

いよいよ30代、結婚 もしたし、人生の墓場って感じ。
世の中で問題になっていることが、どんどん身近になってきます。

女性は30過ぎたら乳癌の検診を受けなければならない。
自分もそういう年、他人事ではありません。
どんな事で死んでいくか分かりません。
あっという間の人生です。
どの丸太にしようかと選り好みしている内に、時間が過ぎていきます。

そうやって必ず死ぬのになんのために生きるのか

本当の生きる意味仏教に教えられています。

生きる意味がわからないから不安

もし生きる意味がなければ、苦しむために生きることになる。
これはおかしい。

人間何のために生きているのかっていったら、それはやっぱり幸せになるため。
だって、みんな幸せになろうとして生きているんでしょう。
毎日、幸せになろうとして生きている。

「そりゃ、あるだろうが、人それぞれでしょう」という人。
それは板切れ、丸太ん棒ですよと。
これはどういうことか。
一時安心したものの、続かないから別の丸太を求める。
だから不安になる。

その繰り返しでキリがないから、結局いつまでたっても幸せになれない。
一言で言うと、死ぬまで求道。
死ぬまで、安心も満足もありゃしない。
だから、みな不平不満、不安で、
安心も満足もしていないじゃないですか。

人それぞれと思っている心の声に対して、
その人それぞれで結局幸せになれていないじゃないかと言う。
確かにそうだなぁと思わせます。

「だから、それを探している」
「自分はこれでいいと思う物がある」
という人がある。
それに対して、幸せになれない原因がある、
それをみんな知りたいと思っています。

その原因は仏教に教えられています。

その原因をなくした時、
ああぁ〜、うれしい!、とか今日はとっても面白かったぁ〜!、
充実してたぁ!、とか、大満足ぅ〜!とか、
人間に生まれてきてよかった!
って言うような、本当の幸せになれるのです。

それか本当の生きる意味なのです。

浄土真宗に教えられていることとは?

浄土真宗を開かれた親鸞聖人の主著が教行信証です。
大部な教行信証の冒頭に書かれているお言葉です。

難思の弘誓は難度海を度する大船
教行信証

難思の弘誓とは、阿弥陀如来の本願です。
これ以上広いお誓いはないから弘誓といわれています。
想像もできない素晴らしいお約束です。

そこで、次に難度海について教えられています。
だから、人生を海にたとえて難度海といわれています。
この話は心の闇をたとえられています。
難度海とは私たちの人生です。

難度海とは苦しみの海、苦海とも言われ、
私たちの人生のことをたとえている。
これを話すには4つのポイントがあります。

①見渡す限り水平線・生きる意味がわからない
②次々と波がやってくる・苦しい
③だから丸太にすがるが裏切られて苦しむ
④最期はドザエモンになって死んでしまう

大変奥が深い話です。
こういう海を渡す船を教えられたのが、仏教です。
苦しみの海と言われる難度海を、明るく楽しく渡す大船がある。
だからこの大船に早く乗れよ。
これが本当の生きる意味だと教えられているのが仏教であり、浄土真宗です。

 

阿弥陀如来はなぜ諸仏の王なのか

阿弥陀如来は、本師本仏です。

それはなぜか、阿弥陀経にも説かれています。

阿弥陀には二義あります。
一つには、光明無量、阿弥陀バハ。
二つには、寿命無量、阿弥陀ユス、と言われます。
これは阿弥陀経の名義(みょうぎ)段です。

ちなみに、阿弥陀経の内、真実が説かれているところが二つあります。
名義段と、六方証誠段です。

その名義段に何が教えられているか。
正報荘厳とある。
正報と依報の二つある。
依正二報。
正報は阿弥陀如来、依報は極楽浄土のことです。
まず依報荘厳で、
次に正報荘厳、阿弥陀如来 のことが説かれています。
そこを名義段と言われます。

彼の仏の光明は無量にして、十方の国を照らすに障礙する所無し、
是の故に号して阿弥陀と為す。阿弥陀経

これが光明無量です。

彼の仏の寿命、及び其の人民も、無量無辺阿僧祇劫なり、
故に阿弥陀と名く。阿弥陀経

これが寿命無量です。

これが阿弥陀と言う意味です。
アーミータということで、
測ることができないということ。

中でも光明無量が、阿弥陀如来阿弥陀如来たる所以です。
この光明によってのみ、私たちの苦悩の根元をぶち破ってくださるのです。
他の仏には及ぶことのできないことだから、
十方諸仏がほめたたえておられます。