「宿善うすいなあ、助からないのではないか?」
こう思って助からなかったら大変と、必死に求める人は宿善の厚い人。
「宿善うすいなあ。やめちゃおう」となる人は本当に宿善薄い人。
あるとき仏法聞くのやめたいというひとがきたとき
「仏法聞くのやめたら死ななくなるのでか?」
「仏法聞くのやめたら悪をつくらなくなるのですか?
仏法きくのやめたら因果の道理をかえられるのですか?」
仏法聞くのやめてそういうのが変わるなら聞く必要はない。
しかし、仏法聞くのをやめようが100年後にはみんな死んでいる。
あるおばあちゃんのところで三日三晩真剣に聴聞した。
しかし、助からなかった。
そのときおばあさんがぽつりと「あんた無宿善かもしれんね。」
それをきいてその言葉がつきささった。
いよいよ信仰がふかまっていくと
「これだけ聞いてどうして?おれこそ無宿善ではないか」
と思えてくる。
言葉で通れない道を体で通ってもらうしかない。
みんなここまで聞いて一通りのことは聞いているとおもう。
いよいよ二河白道を進む。
それは知識ではない。
あるときあるひとが長島監督にどうすれば打てますか?
「ひゅっと来た球ををぱしっとうてばいい」といった。
それを聞いてうてるようになるか?
だれもうてない。
野村監督ならデータでおしてくれるかもしれないが、
体を通して素振りや練習しなければどうにもならない。
言葉は言葉、相対のもの。体験とは違う。
実地で通ってもらいたい。
焦ってあせらず、いそいで急がず。
一人一人のしのぎです。