念仏者は無碍の一道なり。そのいわれ如何とならば、
信心の行者には天神・地祇も敬伏し、魔界外道も障碍することなし、
罪悪も業報を感ずることあたわず、諸善も及ぶことなき故に無碍の一道なり、
と云々。(歎異抄7章)
この歎異抄に記されている、
「罪悪も業報も感ずることあたわず」
とはどういうことでしょうか。
「罪悪」とは、罪や悪、
この罪といいますのは、私達が、欲や怒りやうらみねたみの心で、
すなわち煩悩でつくる罪です。
煩悩によって悪業を作りますと必ず悪い報いとなって、
障害となって、さしさわりとなって返ってきます。
これは当然の事です。
それを親鸞聖人は、感ずることあたわず。
不感症になってしまう。
神経が壊れてしまっている。
そんなものは幸せでない。
多くの人が誤解して間違えている所です。
「往生の妨げとならない」どんなに悪を作ろうと、
それで、この世界に出させて頂いたものが、
お前ドーピングしたからメダル剥奪、という事にはならない。
どんな悪いことをしても、往生の妨げとならない。
喜びに転じ変わる。
何が喜びに転じ変わるかというと、
苦しみが喜びに転じ変わる。
苦しみが喜びに転じ変わることを、転悪成善という。
これは、イメージがわかない、
実感がわかない人が多いと思います。
この世界に出ていないと当たり前なんですけど。
煩悩即菩提ということです。
たとえば、船に波が次から次へと押しよせてきても、
大きな船ならば、障りにならない、それどころか、
大きな波が来るほど、スイスイと行けるという事もある。
波とは苦しみ、苦しみが障りにならない。
罪障功徳の体となる
こおりとみずのごとくにて
こおりおおきにみずおおし
さわりおおきに徳おおし
(高僧和讃)
氷が溶けて水になる。煩悩が菩提になる。
氷と水の関係といいますのは、氷は水でできている。
水は氷で出来ている、
とあんまり言いませんけど、言うものと思ってくださいね。
氷が溶けて水になる。
氷は、あっちへごっつん、こっちへごっつん。
障りになるイメージ。
水といいますのは、障りにならない、そういうイメージ。
やたらと障りになっていた氷が、溶けて流れると、
まったく障りにならない水になる。
罪や障りが大きければ大きいほど、功徳、喜びの種となる。
功徳という言葉が仏教に出ていたら、二つの意味がある。
善根功徳と菩提功徳。
功徳っていうのは、善っていう意味。60%位。
もう一つは喜び。
水にたとえているのは、障りにならない、喜びを表す。
まったく障りにならず、喜びの種になる。
これを、罪は渡さぬよろこびの元といった歌がある。
「コラ阿弥陀助けたいなら助けさそ 罪は渡さぬよろこびの元」
阿弥陀如来 に救われますと、罪が消えてなくなるのではなく、
残っているのにそれがよろこびとなる、幸せなんですよ。
これが転悪成善、煩悩即菩提。
これは
懺悔即歓喜。
つまみ食いをして、そしてお母さんに怒られる。
財欲を出して、強盗に入って、警察官に叱られて逮捕される。
信後も、業報を受けるのは免れられない。
あぁ、それにしても私って奴はなんて馬鹿な奴なんだろう、
愚かな奴なんだろう。
こんな幸せの身に救われながら、どこまでもしたたかで、
ゆり動かされて、やっちゃいかんと知りながら、
ついついやってしまって、
なんと、愛想の尽きる奴だろう、
懺悔となる。
そして、そんな私を救って頂くなんて、
なんて素晴らしい本願なんだろう、
なんてかたじけない。
どこまでも深い阿弥陀仏の御恩に歓喜と変わる。
阿弥陀仏は可愛いとおっしゃって、
そんな私をようこそ救って頂いたと思うと。
罪が起きなければ、懺悔もなければ、歓喜もない。罪が起きる度に。
煩悩が罪を作るおきに、照らし出されて、随犯随懺。
あるいは、念々称名常懺悔、念々称名常歓喜。
いつでもどこでも、煩悩はなくなりませんから、
その罪が照らし出される度ごとに。
罪が喜びの元となっている。