煩悩を満たし切るとか、煩悩をなくすとか、
煩悩を問題にしている間は、相対の幸福の問題です。
でも人類には煩悩しか分からないので、それしかありません。
キリスト教は、禁欲を徹底的にいわれます。
あれを徹底しないと幸せになれない。
幸せになるには煩悩をなくさなければなれないといいます。
西洋哲学は未完成です。
キリスト教も、キルケゴールの実存の三段階も未完成です。
美的段階。
倫理的段階。
煩悩ばかり問題にします。
それが限界です。
そして、論理で考えていても、この先も完成はありません。
しかし仏教は、煩悩を満たすのでない、なくすのでもありません。
人間に生まれてきた生きる意味を果たした世界は、
煩悩が喜びに転じ変わるしかないのです。
だから煩悩を満たす、なくす、吹っ飛んでしまう。
それでキルケゴールは宗教にそれがないかなと賭けましたが、
その宗教画キリスト教だったからそれはありませんでした。
仏教に出会えなかったのです。
だから仏教に出会ったら驚いたと思いますよ。
ハイデガーが歎異抄を読んで驚いているのは、
キルケゴールの哲学の次がハイデガーだから、
キルケゴールの哲学知っていたものだから、
歎異抄読んで直感的にそれだということ見抜いたのでしょう。
歎異鈔には煩悩即菩提があふれているからです。
それで、親鸞は煩悩があるがままで幸せという世界を得ているに違いないことを文章から感じたんでしょうね。
分かる人はわかるから。
それで煩悩即菩提を感じたヨーロッパの偉人は驚いたのです。