社会主義が崩壊し、残った資本主義は結局、拝金主義です。
または何にも価値はないと絶望する人々。
誰もこのニヒリズムに打ち勝つことができません。
多くの若者はすでにニヒリズム的な問いの水準を生きてしまっています。
そこでは殺人とは自殺の別の形態です。
そして、ここから先は、正真正銘の哲学的探求が要求されることになり、
そのうえ、問い自体にもまだ先があるのです。
このニヒリズムの次元で言えば殺人と自殺は別の形態。
別の形態ということは、本質は同じです。
形態が違うだけで、本質は一緒。
人を殺すと言うことと自分が自ら死ぬと言うことです。
どうして本質が一緒かな?
形態は別ですね。
形は違うでしょ?人が死ぬのと自分が死ぬのと。
本質が一緒。
命をかる〜く考えています。
軽くどころか生きる意味を見出さない点で同じです。
ニヒリズムという点で一緒なんです。
自殺が何故いけないか。
殺人が何故いけないのか。
本当にくい止めようと思ったら命は尊いんだよと。
命は何故尊いのかという問にハッキリ答を出さなくちゃいけません。
生きる意味は無意味じゃありません。
あなたが生きている人生には意味があるんだよ、と。
それと同様に他の人の人生にも大切な意味があります。
だからあなたも自殺してはいけないし、
大切な人の命も奪ってはいけないんですよ。
こう言うしかない。
その答えは即ち生きる意味って何だ?こういう問に行きつくんです。
人殺しが何故いけないのかという問に答えるには、
生きる意味とは何かという問に答を出さなくちゃいけません。