私たちは、生まれてきた時は何ももってませんでした。
私を幸せにしてくれそうなものだ、というものを自分の周りに集めていくわけです。
だから私達の周りに「モノ」はたくさん増えていく。
しかし20世紀がそうであったように、その縮図が私です。
10年前の私と今の私、周りに溢れているものは格段に違っているはずです。
なのに、10年前に比べてはるかに幸せになったと言ってる人はありません。
一生懸命回るだけの苦労ではすべて無駄。
実は大変ショッキングな事実なんです。
これを仏教で流転輪廻といいます。
同じ所をぐるぐる回るだけです。
これから先もいろいろのものが身の回りにそろうことでしょう。
出世する。
家を建てる。
では、そのうちに「いやぁ、幸せだ!」という時がいつかやってくるか。
そんなものではありません。
また、それらを手に入れるには、それなりの努力や苦労が必要になるわけです。
それらの努力や苦労が本当に報われているのか。
報われるのならイイんです。
しかし、流転輪廻は報われません。
一切無駄ということになるわけです。
自分の生涯が無駄になるわけです。
悲劇です。
これは捕虜の話がピタッとくるわけです。
捕虜を苦しませるということで、
A地点に穴をほらせてB地点に土を持っていく。
穴ができるとB地点の土でA地点を埋めさせる。
意味はない。
これを永遠に繰り返す。
掘るのも背負うのも運ぶのも、楽ではありません。
せめて、あと3回、あと100回となったらヤル気が出ますけど、
果てしなく続くとなったら、ヤル気でませんよ。
一切の装飾を取り去れば、私達の人生というのは流転輪廻です。
この果てしない作業と同じです。
働く意味は見いだせません。
究極のたとえとしては、去年の宝くじを買うのと同じことなのです。
絶対当たらない。
絶対求まらない道を求めているんですから、
これは悲劇です。
そうは言っても、そんなことはない!と思うのがみんなです。
しかし、仏の智慧をもった方からご覧になれば、
回っている姿に変わりはありません。
これを自他ともに徹底するというのは、大変なことです。
そして、本当の生きる意味は、仏教に教えられています。