仏教研究室

お釈迦さまってすごいですよね。一緒に仏教を学びませんか?

人生は食うて糞して寝て起きてさてその後は

一休が人の一生をこういっています。

人生は食うて糞して寝て起きてさてその後は死ぬるばかりよ

突き詰めれば人生ってこれだよっていうのです。
毎日毎日同じことの繰り返し。

一人暮らしをするようになると思うのは、
人間って食ってばかりいるということです。
朝食べたかと思うとあっという間に昼になる、
そしてまた夕飯、毎日コンビニの弁当ばかりでは味気ないし、
作るのも面倒、外食するのも金がかかるし・・・
ああ、また腹がへってきた。

幸せな瞬間って夜寝るときという人が多いが、
次に幸せな瞬間はもう朝かと思って目がさめたら、
まだあと1時間寝ていられるとわかったとき。

しかし、つかの間の幸せでやがて起きなければならない。
さっき、起きたばかりと思っていたのに、
あたりはあっという間に暗くなって気がつくともう夜。

一日がたつのが早いなあっとつぶやきながら、
明日からまた同じサイクルが繰り返される確実な予感とともにため息が一つ。

道端で日向ぼっこしている猫をみると
「いいよな、猫は」
て思います。

何の苦労もなく、食べて出して、寝ておきて自由にやっています。
学校も、試験も、レポートも、就職活動も、会社も、不景気もない。
自由だ、きままだ。

そうえば、ゲゲゲの鬼太郎に出てくるおばけもそうでした。
「おばけにゃ学校も試験も何にもない・・・・」

猫やおばけになった方がよっぽどましだなあって思います。

そして、結局いいことなんて何にもなく、
死ぬだけだとしたらあまりに虚しい。

少しも前進、向上していません。
幸福というゴールを知らないから
100年前も1000年前も人はただ同じところをぐるぐる回っています。
早くまわるか遅くまわるかの違いがあるだけです。
そして、さてその後は、死ぬだけです。
これでは働く意味がわかりません。

あまりに虚しいのです。

 

 

仏教で死後は霊魂もなければ無でもない

仏教は死後の世界を否定する「断見外道」でも、
死後も変わらぬ霊魂が存在するという「常見外道」でもないことを
ブッダお経に説かれています。

それは、阿含経

因果応報なるが故に来世なきに非らず、無我なるが故に常有に非らず」

というお言葉です。


私たちの生命について三世があるとすることについては
これを否定する人もあればまた肯定する人もあるでしょう。

たいていはどちらかです。

地球上のほとんどの人が、キリスト教イスラム教ですから、
それらは永遠不滅の霊魂があると言っています。
このような来世有りとする説はの常見外道とよばれるものです。

また、最近では科学 が発達してきて、唯物論的に考える人も増えてきました。
唯物論の人は、脳がなくなれば心もなくなると考えて、死んだら無になると根拠もなく考えています。

このような来世を無とする説は、仏教で断見外道といわれます。

それに対してブッダは 
「因果応報なるが故に来世なきに非ず、無我なるが故に常有に非ず」
と、断見外道も常見外道も破られているのです。

四苦八苦の通仏教と浄土仏教の違い

四聖諦仏教の基本的な教えで、
これを否定する人はありません。

苦諦-人生苦なりという真理
集諦-苦しみの原因を教えた真理
滅諦-苦しみが滅した世界を明らかにした真理
道諦-救われる方法

これらの中身については、通仏教では、このようになります。

苦‐病状‐四苦八苦
集‐病因‐煩悩
滅‐全快‐涅槃
道‐治療法‐八正道

ところが、八正道によって煩悩をなくし、涅槃に至ることができた人は、
これまでお釈迦さまただ一人です。
それ以外の人は誰もできません。

そのため、すべての人を救おうとしておられるブッダ慈悲からすると、
四聖諦の中身はこのようになります。

苦‐病状‐後生の一大事
集‐病因‐後生暗い心・心の闇
減‐全快‐無碍の一道・信心決定
道‐治療法‐阿弥陀如来の本願・聴聞

これは幾億兆の人が救われた道です。

 

因果応報は仏教のお経を貫いています

仏教の根幹は因果の道理です。

ブッダはこのように説かれています。
一切法(万物)は因縁生なり」(大乗入楞伽経)

すべてのものは、因と縁がそろって生じているということです。

すべての結果には必ず原因があります。
原因なしに生じる結果は万に一つ、億に一つもありません。

運命も、結果の一つですから運命にも原因があります。
何ら意義のない偶然のでき事のように解釈している人々もあります。
しかし、原因なしに生じる運命は、億に一つ、兆に一つもありません。

ブッダの説かれたお経は、全部合わせると、七千余巻の一切経といわれます。
ところが、そのお経 の中に、因果の道理に反したものは、一つもありません。

因果の道理に立脚して教えが説かれています。
因果の道理こそ、一切経を一貫している根本です。

ですから、因果の道理がわからなければ、般若心経もわからなければ、法華経もわかりません。仏教の根本なのです。

そして、因果の道理は、因果応報です。

こんなビデオがありました。

自分を見つめるということ

私たちに何か悪いことがあると、
自分が悪い結果を受けたのはあいつのせいだ、
こいつのせいだと犯人探しをします。

もちろんそれも悪いのだが、そんな悪い結果を受けるような種まきを
自分がしてはいないだろうか。

仏教の教えから考えれば、因果応報です。
100%自分のたねまきによって、自分の運命を生みだしているのです。

こうなると、自分がどんなことを言ったかやったか、思ったかという、
自分自身を求めると言うことは多いようで少ない。

しかしブッダは、本当の幸せ者になるには、不安を感じたり、
自身を喪失したりするような人が、
明るくて、満足して充実した自分になるためには、
あなたとはどんなものなのかということを、
法鏡という鏡に照らし出してもらわなければならないと教えられています。

法鏡というのは仏教のことですから、
仏教を聞くということは、自分の心を法鏡に照らし出して頂く
ということです。

自分の心を知ってこそ、本当の幸せになれるのです。

 

浜崎あゆみ「FARAWAY」からわかる感情

以前良く売れたアーティストに浜崎あゆみがいる。
彼女の曲の「FARAWAY」の中に、
「新しくあなたらしく、私らしく生まれ変わる」
というのがあります。
この詩を聞いて、胸にしみるな、浜崎わかるよという人が多くあります。

自分がどういうものかわからない。
今の自分は何だか違う気がする。

虚無感を感じて生きる意味が分からない。
心からの喜びがない、モラトリアムになっている人もあります。
そういうことから、
本当の自分を見つけて、
自分らしく喜びいっぱいの人生に生まれ変わりたい
と思っています。

その場合、自分の強みを見つけて、それを活かして仕事をし、多くの人に喜ばれたいという意味です。

その場合、それは、相対の幸福です。

その幸せは続きません。死によって崩れます。

ところが、真実の自己が知らされると、死によっても崩れない絶対の幸福になれると仏教で教えられています。

その身になることが本当の生きる意味なのです。

 

怒りっぽいと言われて怒る人

自分のことぐらい自分がよくわかっているよ
と言う人がいるかもしれませんが、

自分のことは自分がよく知っていると思っているけれど、
分からないものは自分自身だと
昔からこういわれます。

知るとのみ思いながらになによりも
知られぬものは己なりけり

ある人が怒りっぽいといわれて、
「私のどこが怒りっぽいのよ」
怒っています。

ある人は、
「あの人は他人の悪口ばっかり言っている」
と他人の悪口を言っています。

人に何か自分のことを言われて、
すぐにぐらぐらくるとか、
くよくよするとか、
自分の事が自分でわかっていない表れともいえます。

人間誰しも悪口を言われるのがいやでしょう。
自分のことは自分がよく分かっていえる人がいれば、
あたっているのならその通りだし、違うのなら違うのだし。

そうでなくて、言われてすぐくよくよするのは、
結局自分が分かっていないということです。

分かっていると思いこんでいる自分自身がわかっていない。
自分自身がいいたいどんなものなのかということを解き明かすと
私たちの人生ががらっと変わってきます。

その私たちの心について、仏教に詳しく明らかにされています。