仏教研究室

お釈迦さまってすごいですよね。一緒に仏教を学びませんか?

できるだけ広い視野で判断する

私たちはつい狭い範囲で物事をみがち、
人間関係がくずれるのも、ささいな誤解やすれ違いによることがほとんどといわれる。

例えばカエルのピョン太くんが、ピョン子ちゃんを池に突き落としている絵を見て
何をしているところだと思いますか?

この絵を見ると、
「なんとピョン太は悪いやつだ!
かわいいピョン子ちゃんを池に突き落とすなんて!」
と思うかもしれない。
ところが全体図をかくとどうなるか。
木の上から大きなものが落ちてきている。
それでピョン太くんは体をはって、ピョン子ちゃんを助けようとしている!
ピョン子ちゃんはカエルだから池に落ちても大丈夫。
「えらいねピョン太くん!」
評価は全く変わってしまう。

私たちはこの一場面だけみて物事を判断しすぎ。
裁判でさえも、何十年もたってやっと死刑判決をうけていた人が
無罪になることもある。
裁判所で時間もお金をかけていてでさえそう。

できるだけ広い視野で判断することが必要。

 

幸せって口にすれば指の間からこぼれ落ちる

今日は浜崎あゆみさんに一言聞いてみましょう。

「幸せって口にすれば指の間からこぼれ落ちる」
5thShingle「Dependonyou」より

「めざしてたゴールに届きそうなとき
本当はまだ遠いこと気づいたの?
一体どこまで行けばいいのか
終わりのない日々をどうするの?」

どうしたら心から充実した、喜びと満足がえられるのか。
一体どこまでいけばいいのか。
ゴールと思っていたものがゴールでなかったということが非常に多い。
ゴールに届きそうなとき、本当はまだ遠いことに気づいた。
一体どこまでいけばいいのか。
終わりがない、ゴールがない、目的地がない、そんな道を歩んでいても幸せが手に入らない。
本当のゴールが見つからない。
ゴールがない、そんな道を進んでいても充実した人生は送れない。
歴史を紐解くと、そんなことがたくさんある。

しかしそれをよくよく見てみると、共通した失敗のパターンと
共通の成功のパターンがあることが分かります。
これをよくよく知っておかないと大変ですよ。

逆にこの成功のパターンをしっていると人生が開けてきます。

一つ簡単にいいますと「キリがない道」「ゴールのない道」を進んで幸せになった人はないということ。
これは歴史が痛いほど証明してくれてます。
それと同じ涙を流してほしくありません。
ちなみに幸せになれない原因、ちょっと難しく言えば苦悩の根元といわれるものが仏教で明らかにされています。

今のは失敗のパターンの一例ですが、逆に明確な目的、ゴールをもっていきている人は喜びあふれる日々を送っていますから、
人生の目的を達成して、毎日が楽しくて仕方ない、喜びに溢れた
日々を送って欲しいと思います。
人生の目的を達成すれば、流した涙の一粒一粒が、真珠の玉となって返ってくる。
そんなすごいことを仏教で学べます。


人生が終わりなき苦しみになる原因は?【無駄な人生にしない方法】

芸能人でモテモテの2人が結婚すると大体いいことない

芸能人でもてもての二人が結婚すると
たいていいいことない。
お互いに浮気の種がある。

男性の立場で考えると
飛びきり綺麗な美人の奥さんはおちおち家を空けられない。
浮気しているかも知れないから。

反対にとても格好良くて女性からもてもての男性が
自分の旦那と言うことになる奥さんは
おちおち枕を高くして眠れない。

今日は仕事で帰れないとなると
どこかで浮気やっているんではないかと探偵を走らせる。
お互いにそうだとうまくいかないね。

だから幸せそうに見えてなかなか幸せが続かない。
「♪恋人達はとても幸せそうに手をつないで歩いているよね
まるですべてがうまくいっているかのように見えるよね
ホントウは二人しか知らない」
浜崎あゆみ大先生も教えて下さいます。

だから、幸せがやっぱり続かない。
見かけは幸せそうに見えるけれど続かないものなんだね。

 


【幸せの相対性】ハーバードが解明した仰天の事実(人生を変える幸せな生き方とは?)

仏教では肉体よりも心を大事にする

仏教では肉体よりも心を大事にする

「ネクタイ曲ってますよ」といわれれば、「有り難うございます」といって治せる。
ところが「根性曲ってますよ」のといわれても、素直に「有り難うございます」と治すことはできない。

それだけ心を大事に思っているから。
自分の大事に思っていることを悪くいわれると腹が立つ。

器量より気立て」といわれる。

計画的な犯罪と過失とどちらが罪を問われるか

計画的→殺したいという心の行いがあって、体で殺す
過失→殺そうと思わずに殺してしまう

それだけ法律でも心はどうかを問題にしている。

仏教でなぜ心を最も重く見られるかというと、心で思ったことが口や体にあらわれるから。
火の元と火の粉だったら、火事を消すには火の元に水をかけないといけない。


あなたの運命を決める3つのカルマ(業)とは?【惨めな人生を生み出す最大要因と抜け出す方法】

人生は狂人の主催するオリンピック(芥川龍之介)

人生はマラソンのようなもの。

ペース配分をよく考えて、よりよい生き方をしないといけない。

ところが、ショッキングなことをいっている人がある。

芥川龍之介は『朱儒の言葉』に
「人生は狂人の主催するオリンピック」
という。

私たちは人生という競技場に突然、放り投げ出されたようなもの
一体どこに向かって走ったらよいのかわからない。

「前人の跡を見るがよい、あそこにあなたたちの手本がある」
といわれても、誰も何の為に生きているのか知る人がない。

親も学校の先生も、知識人もみな人生のゴールがわからずに、競技場の土にまみれている。

まさに狂人の主催するオリンピックだと。


ゴールなき競争を抜け出す方法【芥川龍之介・人生は狂人主催オリンピックの秘密】

六道輪廻とは

仏教で苦しみの絶えない迷いの世界六つを六道とか六界とも言う。

1地獄界
2餓鬼界
3畜生界
4修羅界
5人間界
6天上界

これを六道と言いますが、道とは世界という意味。
私たちの業が生み出した世界。
六界とも言います。

仏教で世界とは、私たちの行いが生み出したもの。
男の世界、女の世界、芸能界、政界と言いますね。

これを大きく分けたら六道。
小さく分けると25ある。
業によっていろいろ分けられる。

地獄界。
六道の中で最も苦しみの激しい世界。
餓鬼界。
食べたくても食べられない、飲みたくても飲めない世界。
畜生界。
弱肉強食の世界。
常に不安。
鳥は勉強しなくていいな、と言う人がいましたが
畜生界は決していい世界でないんです。
畜生界は苦しみの多い世界なんです。
この地獄界、畜生界、修羅界を三悪道と言います。
残りの3つは、これよりはまだ苦しみはまし、ということで三善道と言う。

人間界、修羅界、天上界。
三善道と言っても、決していい世界じゃない。
三悪道よりは、まだまし、ということ。
修羅界、人間界、天上界。
私たちが認識できるのは人間界、畜生界ですね。

修羅界はいつも戦いばかりしている世界。
夫婦喧嘩の絶えない家があると、
「あの家は修羅場だ」と言ったりする。
人間は善悪を問題にする世界。
因果の道理、問題にしますね。

人間界は、苦楽相半ばする世界。
あざなえる縄の如し。
三悪道は、苦しくてなかなか仏法が聞けない。
天上界は、楽しくてなかなか仏法聞けない。
芸能界とかそうですね。

天上界も迷界です。
天人の五衰。
という老化現象に苦しみます。
楽しかったものが崩れる苦しみを味わわなければならない。
人は山のてっぺんに上ることはできるがそこに永く留まっていることはできない。

アイドルとかみんなそうです。
一時的なので、いくら今楽しいと言っても、すぐ壊れてしまう。
天上界でも楽しかったものが崩れる苦しみを味わわなければならない。
この六道輪廻の中で、人間界だけが仏教を聞けるんです。


【生まれ変わりとは】来世も人間に生まれる人・地獄に生まれる人

臨終の三段階

臨終には三段階あると仏教で教えられている。

1.心明了位の臨終
2.身体愛法位の臨終
3.心不明了位の臨終

の三段階。
私達の臨終は三段階を経るんだと説かれている。
この簡単な意味。
実際こういう段階を経て臨終を迎えます。

第一段階・心明了位の臨終

心明了位というのは、
心がまだ明るいときに死んでしまう臨終。

これは前五識の臨終。

段階としてはまず前五識、私たちの感覚。
この五つの心がまず死んでいく。
まず感覚が機能を失う。
しかしまだ心は明るい。
心とは意識です。
まだ意識が明るい状態、残っている状態で終わる

まず前五識が死んでいくんだぞと。
これはまず目が見えなくなる、耳が聞こえなくなる、
匂いの感覚、舌の感覚、体も熱い寒いと受け止める感覚がなくなる。

だから臨終に子供が来ても分からない。
でよく枕元でお母さんぼくよ、わかると大きな声を出す人がある。
それは耳が聞こえなくなるから。

大きな声を出して分からせようとする。
または目の前に顔を出して。
目も見えなくなるのかな、
それで臨終のお母さんの顔に自分の顔を近づけようとする。

本人からすれば、死にかけの人は大きな声で叫んでも誰かがどこかで確か
自分の息子ではないかな、でもハッキリしない。

また目の前に顔を寄せられてもハッキリしない。
何とか見ようとする。
無理してみようとすると目がギョロッとする場合がある。

びっくりしますけれど。
そしてやがて前五識が死んでいく。
次の臨終が、身体愛法位の臨終。

第二段階・身体愛法位の臨終

体の機能を失い、そしてこの世のすべての物に執着を起こし、
大変な苦しみを受ける。
これ意識の臨終。

この時が非常に辛いんです、愛とは執着。
法とは、三つに分けるなら、三愛。
実はこの時に三愛が起きると、言われているんですね。
往生要集に出ています。

三愛が起きる。
苦しいのは身体愛法位の臨終。
この時が大変な苦しみなんです。
愛とは執着。
大変な執着が起きてくる。
これを三つに分けて仏教では教える。

境界愛。
自分の境界にあるものに執着する。
妻子や財宝。
そう言うものに執着する。
あなたの境界にあるもの。
相対の幸福に対する執着。
そう言う相対の幸福とみんな離れる苦しみ。

そして自体愛。
自分の体に対する強い執着。
この肉体とも離れる。
肉体に対する苦しみ。
そして当生愛。
これは後生暗い心ですけれどね。

死後未来に対して起こす愛着心。
死んだらどうなるか分からない、
まさに未来に生まれるところについて起こす執着。
後生はどうなるか分からない苦しみ。

言葉を変えれば死の苦しみを三つに分けた言い方です。
これが一度に起きてきますから、意識の臨終では。
まずこの世の相対の幸福と分かれる。
自分の体と分かれる

信心決定してなくなるのは当生愛がなくなる。
信心決定しても境界愛、自体愛はなくならない。

肉体の苦しみも辛いが、それとは桁違いの苦しみが当生愛ですから。
南無阿弥陀仏によって解決できる。
多くの人はこれが分からない。
死がなぜ怖いかというと多くの人は相対の幸福と別れるから。
肉体の苦痛があるからと思うが。

もしも死の苦しみが境界愛、自体愛の苦しみなら現在も解決できる。
もし境界愛が苦しみなら、乞食になればよい。
これほとんどありません。

乞食はお金も何もないから、これだけなら安らかな死に方。
お金たくさんある人ほど執着が欲しい。
また自体愛もモルヒネをうてば安らかに死ねます。

死んだ後、一切ないなら、後生の苦しみがないのなら、
私たち死の苦しみ解決できる。
乞食になってモルヒネを打てばよい。
人生の目的は乞食になることだ。
モルヒネを打つことだ?

おお良いことを聞いたとは誰も思わないのですね。
ちょっと変だなと思う。
いくら乞食になってもモルヒネを売っても不安はなくならない。
死んだ後がハッキリしないから。

この当生愛、後生暗い心を解決しなければもう幸せにはなれない。
身体愛法位。
そして第三の臨終を迎える。

第三段階・心不明了位の臨終

意識が死んでいるから、心不明了位。
この時に阿頼耶識が転生するといわれます。

阿頼耶識については、阿頼耶識とはに詳しく解説されています。

この時末那識を阿頼耶識に含めてのことです。

末那識がなくなるなら悪の根元がなくなることになる。
阿頼耶識は死なない。
転生する。
前五識や意識はなくなります。
末那識、阿頼耶識
阿頼耶識は死ぬことはありません。

なくなることはありませんから、阿頼耶識が転生する。
意識がないから心が明るくない。
そして後生と旅立っていく。
こういう順番を経る。

時間がかかる人もあればすぐにいく人もある。
また1と2が逆転することがある。
その時が恐ろしい。
10人中何人か安らかな臨終ですという人があるが、それはこう言うとき

普通はまず前五識が死ぬから、外に苦しみが表せない。
だから外から見れば安らかに見えるだけで本人は、七転八倒の苦しみ。

しかし中には大変な苦しみを受けて、もがいて死んでいく人もあるのは、
これは1番と2番が逆転する場合がある。
前五識が死んでいないのに意識が臨終を迎え、三愛が起きる。

それで火の車が来た、火の車が来た。
ヴォルテールのように、
それそこに悪魔がいる、私を連れにやってきた、奈落が見えてきた、
恐ろしい恐ろしい誰か助けてくれ
と言ったのはまだ前五識が生きていたから、
苦しみを外に表せるから、ああいう死に方になる。

実際はああいう死に方なんですよ。
それを顕わす術があるかないかの違い
ですから、どんな人も信心決定しない限り、死の苦しみは逃れられない。

見事に論理的に仏教では臨終の段階について教えられている。
これが臨終の三段階です。

 


【阿頼耶識の意味をわかりやすく解説】八識とは?仏教の幸せが永遠に変わらない理由